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一面、二面、自己肯定、コミュ力、


音楽についていつかまたnoteを書こうと思っていたんですけども、他のことを書いてみることにしました。この話はここ1週間くらい数少ない友人と話してずっと考えていた説というか、表現方法というか、考え方というか、よくわからないものです。
もし意見があったらばちばちください。


すごい暗めな考え方だったのでせめて見出し画像だけは……と思い平沢進じゃない方、みんなの太陽平沢唯にしました。

本題。



一面と二面について

ここからは完全に個人の考え方なので伝わるかどうかは不安ですが書きます。まず、

気を遣わずに接することが出来る人間といる時の自分と、社会的な場(職場など)の人間と接する時の自分、どちらも同じ自分なのか?

という考え方です。もちろん、全く同じノリやテンションで接することはまず無いと思いますが、それにしてもこの考え方をした時、人間が二種類にわけられるんじゃないかと思いました。

①素を出して接することができているけど、どのぐらい素をだすか接する相手によって調節している人
②完全に接する相手によって『素の自分』で接するかもう1人の『社会的な自分』で接するかをスイッチのように切り替えている人

この①の種類を一面、②の種類を二面と名付けました。図にするとこんな感じ。

この考え方を用いると、自分がどっちなのか結構ハッキリわけられるんじゃないかなって考えています。僕は二面です。そして一面と二面どっちが良いとされるか考えたときやっぱり一面じゃないのかなと。

もし一面だった場合、接する相手によってどのぐらい素を出すか調節ができるので相手によって合わせることができ、親密度が上がれば段々とみせることが可能なので正直人と仲良くなりやすいというか、上手く立ち回れると思います。

逆に二面の場合、接する相手によって初めに『素の自分』『社会的な自分』どちらかに設定してしまっている為、初めに『社会的な自分』を出してしまった場合徐々に素の自分を出すということが難しいと考えます。

かといって、『社会的な自分』で接してきた相手にいきなり『素の自分』を出すことも出来ないので自分を出せず、仲を深めたい相手でも一定以上の距離ができてしまうと思います。

一面が素の自分を0%から100%まで調節して出せると考えると、二面は0%か100%という極端にしか素を出せないってことになります。

なので一面は二面より良いとされるかなと個人的解釈が生まれました。

じゃあ一面にすればいいじゃんとか思うかもしれないんですけどこれは多分今まで生きてきた中で勝手に設定されていくものなのでこうやって改めて自分がどっちか考えないと出てこないと思うので、あくまでも自分で決められるものでは無いです。

僕は二面なので既に仲の良い人間意外と接する時に自分を切り替えている、二重人格とまでは言わないけどそれに近いようなことをしている気がします。

二面の人はなぜ二面かっていうと『素の自分』が嫌いだったり、自信が無いので初対面の人や社会的な場で接する人に対して「誰に対しても良い奴」である『社会的な自分』を構築してそちらの自分で何とかやり過ごそうと考えるんだと思うんですよ。

でもこれはあまりやっちゃいけなくて、たとえ『社会的な自分』が高く評価されたとしてもそれは『素の自分』ではないもう1人のその場をやり過ごすための、その場しのぎの自分でしかないので『素の自分』が認められるわけではないという状態に陥るので。

畢竟、こうならない為にも誰と接する時でも『素の自分』をある程度出しておかないと後から取り返しがつかなくなってくるという実体験に基づく考え方でした。


自己肯定感とコミュ力

これは単純な話で、二面の人は『素の自分』に対する自己評価、自己肯定感が低いから『社会的な自分』を作り出して社会的な場の人間と接するんですけど、そこに付随して自己肯定感とコミュ力って比例しているという考えです。

自己肯定感が高い人は一面なので、『素の自分』を調節して出せる。そして円滑なコミュニケーションができる。

自己肯定感が低い人は二面なので、『素の自分』を出さず『社会的な自分』として人と接する。そして『素の自分』を出したくても出せなくなり一定以上のコミュニケーションが難しくなる。

で、自己肯定感が下がるとコミュ力も下がってコミュ力を上げるためには自己肯定感が必要で自己肯定感を上げるためにはコミュ力が必要でコミュ力を上げるためには自己肯定感が必要で……

と一生負のループに陥るっていう……………
今一生抜け出せなくて困っているので誰か助けてください。

以上です。



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