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四月になれば彼女は 変化を受け入れ、気持ちを重ね合わせること

YouTubeのトレーラーを見て気になっていた映画。

愛する人には、どうして愛する人に対してだけの切実な感情や願いが生まれるのか。わからないまま、多くの人はその感情に、より葛藤しているのかもしれない。

と映画を観たあとは思っていたけれど、最近ある本を読んでいて、愛着の証なのだな、と思った。

おそらく「愛着」というのは、ある対象に、どの程度、自分が引き裂かれ、造り変えられたのかという部分と深い関わりを持つものであるのだろう。

ことばの途上

自分以外の存在から介入され、大きな影響を受けたり、手をかけた分だけ大切になる。親密な関係には、自分たちのことのはずなのに、近すぎるからこそ、多様で矛盾していて、掴み切れない感情や個人が生まれる。

映画とは別で、ギデンスの「純粋な関係性」について知る機会があり、映画と重なる概念だなと思った。

社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生み出していると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況

Giddens 1992=1995

「純粋な関係性」の難しさは、相手へのコミットメントを中心にする点にあるそう。

・・・二人の関係性が無期限に維持できる、いわば保証のようなものを、言葉や行いで相手に与えなければならないのである。・・・純粋な関係性の示す特徴のひとつは、いつの時点においてもいずれか一方のほぼ思うままに関係を終わらすことができる点にある。関係性を十分長続きさせるためには、自己投入が必要である。しかしながら、無条件で相手に自己投入していく人は誰でもみな、かりに万一関係が解消した場合に、将来きわめて大きな精神的打撃というリスクを冒すことになるのである

Giddens 1992=1995 

関係が解消されるリスクを抱えながら、それでも続けるには言葉や行為を与え続けることが必要であるという真実。

映画での2人は愛することをさぼり、弥生は離れていった。「気持ち」で繋がる純粋な関係で、共に居続けることがどれだけ困難なことか考えさせられる。

ただ、相手を想う気持ちなしには、本当の意味でのコミットメントは続けられないことも思う。

真っ直ぐに思い続けていた春の気持ちがあれば、愛を終わらせずにいられるのかもしれない。だから弥生は春の元にいった。

大切にしたかったはずなのに、傷つけてしまったり、心を閉ざしたりする。
一緒にいれば大丈夫だと信じられることができる。足掻けない時もある。
大小あれど、そういううねりを繰り返す。想いが重なる時があっても、ちょっとのすれ違いで崩れるのも崩すのも一瞬。
関係が終わったからこそ、鮮烈な、相手を想う気持ちも一瞬だったことに気づく春を見て、愛するとは、愛しているという一瞬を重ね続ける意思のことをいうのかもしれないと思った。

避け難く今日の愛から、明日の愛へと変わっていく。けれどもその一瞬を共有できた2人だけが愛が変わっていくことに寄り添っていけるのだと思う。

そして、関係性を続けるためには、変化を受け入れることが求められる。これは弥生を通して感じたことだ。
弥生は春と過ごして、変わってゆく未来を受け入れられるようになったのかな。

多くの人の奥底で絡まっているものを解き、目を向けていなかった暗がりを照らすような映画だった、とても良かった。

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