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怒りを抑圧した理由~怒りは次のステージにいく起爆剤~

「怒り」とは、どういうものかといえば、これめちゃくちゃ大事な感情です。これがないと、魂の次のステージへ行けないからです。

「次のステージへ運んでくれる」というのが、怒りという感情のパワーなのです。

では、その怒りをフラットに正しく感じて、正しく使えているかと言えば、ほとんどの人が正しく使えていない可能性が高いでしょう。

なぜなら、その怒りは誤って使われていることがほとんどで、その怒りだけを刷り込まれたセンシティブ(繊細)な人は、怒りを感じることすら怖くなっているからです。

間違って使うか、間違って使われて怒りの感情をカットしているか、そのどちらかが多いと思います。

すると、自分の大事な場面で怒りを感じることができなく、魂の次のステージへと向かうことができず、そこでほとんどの人があきらめてしまうのです。

【生まれかわっている目的のひとつ~怒りを感じる~】

そうして輪廻転生を繰り返して、次こそは!と上のステージを目指すのです。

しかし、時に人には上を目指せない時があります。

それは、「どうせ自分なんか…」という気持ちに阻まれる時です。

「そんなの違う!」…とは怒れなくって、受け入れるしかなくって、次第にこの思いは「卑屈」へとよじれてしまいます。

さて、スピリチュアルでは、「そう言ってくる人がいるということは、そう思っているのはまぎれもない自分自身である」と考えます。

「波長の法則」といって「同じ波長がひかれあう」というセオリー中のセオリーがあります。

「お前なんかくだらない」

「お前にできっこない」

そう思わされ、受け入れていると、そう言ってくる人や、そんな事象が降りかかってくるのです。

そうした「魂に刻印された劣等感」(自分なんかこんなものだ)を克服するべく、魂は永遠の時間を使って今生に学びに来ています。

そして、もしそれを親から植え付けられたとしたら、そう植え付けてくる親を選んでその元に生まれか変わってきていると、スピリチュアルでは考えます。

それは、自分が前世から持ち越した課題ゆえに、まずはそう植え付けてくれる両親を選び、学びの基礎を整えます。

そこありきで、今生の課題がスタートするのです。

とした時、「こんな自分に誰がした?親か?!この野郎~!」は、スピリチュアルではお門違いになってしまいます。

自分があの世で「企画×プロデュース」して、生まれてきているからです。

(しかし、心の問題のアプローチは逆です。まずは「親に反抗する」免疫をつけます。「クソババ~!」「クソジジ~!」と「イメージの中」で言ってみる…などします。

スピリチュアルのこうした部分を腑に落とすには、心と頭がバラバラになっていると受け入れにくくなりますので、そうして心も整えていきます。)

さてそうした時、本当の怒りとは他人へ向けるものではなく、「自分はこんなものだ」と思っている気持ちにこそ向ける感情なのです。

つまり、怒りを抑圧してしまうとは、実は「次のステージへは行きたくない」とあきらめる魂の癖があるのです。

怒りを抑圧した理由はいくらでもあるでしょう。

例えば、怒りまくっている人がいて、「もし自分も怒ったらそんな人だと思われる。同類だと思われたくない!」という気持ちで抑圧したり、

怒りをぶつけられて嫌な想いをしたから、「人に嫌な想いをさせたくない」と、怒っているのに我慢しちゃう人もいるでしょう。

しかし、その根底には「次のステージに行って素晴らしい自分なんか受け入れられない。今のままでいい。それ以上は未知だから怖いし、受け入れたくない!」という課題がそこにあります。

その言い訳として「だから私は怒りを抑圧したんです」といえる事象を引き寄せてくるのです。

【怒りは本来どこにむけるべきなのか?】

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怒りは、「人に」ぶつけなくったっていい。

自分の中の「自分なんかこんなものだ」と思う、その思いを問いただせばいいのです。

そして「あぁ、誰よりも私こそがそう思っている。お前なんかこんなもんだ、お前になんかできっこない、そう言っているし、そう思っている。

でも、それ本当にそうなのか?

本当にこれでいいのか?

そう決めつけられて、レッテル貼られて、本当にそれでいいのか?!

違うだろう?!

絶対、見返してやる!だろ?!」

と腐っている、そして自分をみくびっている、そんな気持ちにこそちゃんと「叱る」ことができたら、その人は必ず次のステージに行けるのです。

それは、ちゃんと怒れたからです。

ちゃんと怒れないと、「叱る」ことはできません。

人は腐るものです。

その時に「叱る」という「究極の愛情」が問われる時です。

つまり、怒るとは愛しているということなのです。

愛しているから、本気にもなるのです。

愛しているから、腐ってほしくないのです。

そして、天は人間に時々「雷(いかづち)」(※「厳(い)カ霊(づち)」とも書く)を落とします。

ただ、怒りをぶつけられたように見えたものも、「いや、叱られたんだ…」と、そこにある愛のカケラを感じられた時、自分の中のごう慢さが氷解し、怒りの誤解が溶けていくこともあります。

だって、あなたの魂の器が大きすぎて、小さい時にすでに親を超えてしまっていたら、親は怒るしかあなたをいさめる方法がなかったかもしれません。

また、親が怒るしかやり方を知らなかったのかもしれません。

もし、それでも怒れないと感情が動きにくい人は、まず心の方…

「クソババ~!」「クソジジ~!」

とイメージの中で親に反抗してみてください。

もしくは、親以外で言いたかったけど、言えなくってムカついている人にイメージの中でコテンパンに言ってやりましょう!!

【怒るとは愛しているということ】

怒るとは、自分を愛していているということです。

怒りは「自己愛」のまた違った形なのです。

なぜなら、きちんとした「自尊心」がないと怒れないですよね。

だから、怒れるとは「自尊心を持っている」といえるのです。

だから、自分を否定する人間には怒っていいのです!

それは、イメージで十分です。

怒ることは悪いこと…そう思っている自分の気持ちがあったのです。

だから、怒りを抑圧したのです。

抑圧しているから、自分を愛することがぼんやりしていたのです。

でも、「怒る」は「愛している」なのです。

怒っていいんです。

「私はそんなもんじゃない!私はそんなレッテルの人間じゃないぞ!コルルルァ~!!」

こうして、腐っている「自分の卑屈さ」に怒ってあげた時、絶対次のステージへ行ってみせるぞ!と喝が入ります。

怒るのは、自分を卑下してくるすべてのヤツです。そして、それは自分の心の中にこそいます。

どうかそれを見失わないでくださいね。

これからも「スピリチュアル・カウンセラー」の地位向上と、良質なカウンセラー育成のためにまい進していきたい思います!是非、ご賛同していただけると嬉しいです♪