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ポジティブに諦める話

政府は新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく緊急事態宣言を延長しました。僕は政府の批判は「あまり」しません。なぜなら皆、今の立場でそれぞれのベストを尽くしていると「信じている」から。


僕は、信じています。信じなきゃやってらんない。そしてそれは、信じることを出発点にしないと、自分が辛いからです。これは、ある種自己防衛なのかもしれません。自分以外の他者を疑うことは無限にできますから。でも、それもこれも自分がそのコントロールをできるわけですから。

それならばと、信じるという「雰囲気づくり」を自分の中で開発するのです。これは他者や部下などにおいても同じことが言えます。

その上で、今回のコロナ関連の政府の対応については、僕は否定的にも肯定的にも捉えていません。誰もわからない。これが今の全てです。それでも政治家たちをみんな批判しますが、僕はそうゆう感情にはなれません。というより、政治家に対して、ざっくり言うと常にそうなんだと思います。否定も肯定もなく「期待していない」のだと思います。

死んだ祖父によく、「そんなもんは“棚からぼた餅”くらいに思って、自分のことをやれ」と言われたのを幼心におぼえています。

【棚からぼた餅】・・・思いがけない好運を得ること、労せずしてよいものを得ることのたとえ。

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悲しいかな、僕にとって政府や政治家はそうゆうものなのかもしれません。
これは本当に悲しいことです。でも、どうしても期待できない。彼らにとっての見えない敵は無数にいる(ある)はずだから。だからこそ、国民一人ひとりがしっかりと自分を持って生きないと。まぁ、必要であることは間違いなく、社会というパズルを組み合わせていく作業を推進するのが政治なのですが、僕らも僕らで、コツコツと、足下を固めていくこと、子どもや障がいのある人や、その家族や、友達たち、社会の「現場」とも言える周縁者たちとの間には、誠実さをもって時には矛盾があっても、許しあえる関係性をもっていこうよ。と思うわけです。揚げ足取りはやめようよ。ということが第一の考えです。

ちなみに、僕は26年間政治家の息子をしてきて、社会が(受益者)が期待すべきことと、求めることの根拠の曖昧さを社会側に感じていました。

特に今は人類がSNSというツールを得て、誰もが発信者にもなれて、誰もが受信者にもなれる時代だからこそ、「自分」が必要なんだと思うのです。昭和より、平成より、令和の時代は、より自分の軸が求められる。見えない敵はコロナウィルスではなく、誰しも自分の中にいるんじゃないかな。

日本という国は戦争に負けて歯を食いしばってそこから復興し、高度経済成長を遂げた。その栄光とプロセスは誇れるものだったと思います。しかし過去の栄光は得てして変容への障壁になります。それは、経済成長ではなく、知的成長を阻害するようにも思うのです。これもまた見えない敵なんじゃないかと思います。

だからこそ、過剰な期待をせず、しかし信じて、棚からぼた餅が落ちてくるのを待ち、自分と家族、そしてまず僕の周りにいる人たちを愛すという思考が一番しっくりくるのです。見えないものより見えるものを直視すること。それを学び多き今こそ、気づくべきときなのかも。

これを僕は「ポジティブな諦め」と言っています。

諦めるという言葉はネガティブなようで、実はポジティブなのではないかと思います。一つのことに固執しない。強固なプライドを捨てる。去るもの追わず。
これは、福祉という世界にいると、より、考えるようになりました。
障害があることを認められない人、「できない」ことに落ち込む人、自分らしさが思うように表現できない人、命がもうすぐ終わる高齢者、または何らかの疾病などにより、命のリミットが近づいている人。

僕も人の命を看取る最前線に身を置く人間ですから、軽々しく扱うテーマではないことは十分理解した上です。
 これらの物事(現実)の捉え方は、ポジティブな諦めの延長線上にあるように思うのです。ネガティブに諦めるのではなく、ポジティブに諦める。

コロナウィルスの感染に人びとが怯え、「負けるな!」「コロナをねじ伏せろ!」などという声が聞かれるいま。きっと、知らず知らずのうちにやわらかな心の置き所に困惑しているいま、僕は、なんとなく、そんな風に感じているのです。

人と人の距離を縮めようとしてきた僕らの社会活動・事業。それらを鼻で笑うかのように人と人の距離をいとも簡単に引き離すコロナちゃん。これから「も」ちゃんと対等に”共存”しなければいけないんじゃないかなぁ。

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