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4月7日「四季」

日記を書くにあたって、天気の調べで始めるのは人間のあるべき姿なのか、それとも生きてきた中で獲得した「日記らしさ」に則っているのか、どちらなのか気になった。
空模様を書いておけば、ひとまず、文章の入りとして落ち着きがあるのは分かる気がした。時候の挨拶みたいなものなのだろう。ということは、日記は未来の自分に向けた手紙のようなものか。タイムカプセルに入れた、小っ恥ずかしい手紙を書き連ねているのか。
それならば、いつかの自分、今日の天気はなんだと思う。
秘密にしておこうと思ったが、ヒントくらいは出してもいいか。

仕事からの帰り道に、閑散とした住宅街の路地を歩いていたら、アイスクリームの移動販売車が向こうから走ってきた。ピンク色の車体で、どこかについたスピーカーから声が流れていた。
「味は日本一のアイスクリーム」と言っていた。控えめな表現だなと思った。

「味は日本一」の部分が、大きく出ているように見えて、案外控えめな姿勢であるところに好感を持った。味だけに自信を持っているようだった。
全肯定してくる服屋さんには信頼をおけないのと同じように、味良し、財布に優しい、絶妙な冷たさ、コーンも美味い、ちょうどいいサイズ感……みたいな自信で来られると、そんなアイスは食べたくないと思ってしまう。だからこそ、味に焦点を絞るのは素敵だと思った。
子供以来、移動販売のアイスクリームは食べていなかった。久々に買おうか迷ったけれど、車を止める術が分からないし、食べながら帰るには少しだけつらい気温か、と思ったので今日のところはスルーした。

夜寝る前に、夏目漱石の『明暗』の続きを読もうと手に取ったけれど、文章が脳みそを上滑りした。こういうことがたまにある。
集中力がないわけではないし、睡魔が僕を睨みつけているわけでもないのに、文章を理解する前に、目線が次の行に進んでしまう。焦って前の文に戻って内容を咀嚼して、さて、次に行きましょうと思っても、またまた理解が追いつかない。上滑りしてるのは目線の方か。
自分の読み進めるスピードは普段通りでも、頭での処理が追いつかない、ということだった。原因はなんだろう。脳みそが疲れているのかもしれなかった。こんな状態で読み進めるのは勿体無いと思った。本を閉じた。

ぼけっとスマホをいじっていたら、そういえば、魅力的な展覧会がいくつか催されることを思い出した。それでも調べることにした。

一つ目は『バンクシー展 天才か反逆者か』で、赤い風船と少女や花束を投げるテロリストの絵を描いた、バンクシーの展覧会だった。
何年か前、オークションにかけられた「風船と少女」という絵が、落札されたタイミングで、額縁に仕込まれたシュレッダーによって下半分を裁断されたことで話題になった。
そこからバンクシーが時たま話題に上るようになった。テレビ映えするのだろうと思った。小池百合子がバンクシーのネズミだと言っていたあの落書きは、結局本物だったのだろうか。まあ、どちらでもいいやと思った。

この展覧会は五月末までだった。ゴールデンウィークを挟むし、五月の中頃がすいている時期だろう。
劇団四季の劇場を再利用するとのことで、会場に行くのも一つの醍醐味だと思った。四季の公演を観る前に劇団が去ってしまったのは悲しかったが、その名残だけでも感じられればいいと思った。

それから、『フェルメールと17世紀オランダ絵画展』について調べた。こちらは北海道立近代美術館での展覧会だった。
僕は絵画やアートに特別詳しい訳でもないのだけれど、フェルメールは知っていた。「真珠の耳飾りの女」の人だ。美術の便覧か何かで見た覚えがある。
展覧会のポスターは「窓辺で手紙を読む女」の修復されたverだった。修復される前を見ずに、修復されてキューピッドが浮き上がってきた、おニューの女を見ることになりそうだった。

フェルメールは、いろんなタイミングの女を描く人なのか。他の作品を知らない浅知恵だとそんな風に考えてしまう。観に行く前に調べなければならん、と思った。他にも、レンブラントやメツーの作品も展示されるようだった。出展される絵画一覧をはやく公開して欲しかった。
僕は美術館に行く前に、嫌というほど調べて、本物を見たという悦に浸りたいタイプなので、というのは嘘で、描かれた年代や作者の生活の背景まで理解して観たい性格なので、毎日ホームページをチェックすることになりそうだった。

4/22から6/26までだった。
六月になってから行った方が、緑も生い茂っているし、ちょこまかと動くエゾリスも見られるかもしれない。作品を調べる時間も取れる。初夏に行くことにしようと決めた。

最後は『PIXARのひみつ展 いのちを生みだすサイエンス』を検索した。
映画の原画が見れるような展示かと思っていたら、アニメーション制作の工程を追って、ピクサーの秘密を紐解いてみよう、というような体験型の展示のようだった。想像と違って食指が止まってしまった。でも、面白そうだよ、と僕の中で声がした。そうだろうか。僕はアニメの制作過程を勉強してみたいだろうか。

自分が小学生や中学生だったなら、迷わずに足を運んでいたと思うけれど、アラサーという沼に両足を突っ込んだ自分にとっては、なんだか違うような気もした。それに加えて、場所は芸術の森美術館だから、向かうにしても時間がかかる。ドライブがてらというには、カロリーが高すぎるとも思った。
これは保留にしておくことにした。善は急げというかもしれないけれど、善か怪しいものは、一度立ち止まるべきであろうと思った。

ともあれ、たくさんの芸術に触れることができそうだった。楽しい未来を準備しておくことは、生きていく、ということの言い換えである気がした。
生きていくのだ。

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