見出し画像

4月23日「レゴ」

夜、仕事を終えて、日記を成形することにした。
毎日何かを書きつけてはいたのだけれど、人様に見せるには覚束ない文章運びが目について、ネットに投稿するのを躊躇っていた。一発で納得のいくものを書けたならどれだけいいことか。
まあ、運命の人に送る指輪を買う時にも、いくつかのサイズを試さなければならないのだから、しっくりくるものを簡単に手にすることは多分無理なのだろう。
その上、自分のためでもあるとなればなおさらだった。自分の納得は自己満足と同じことだが、そのハードルは、人からの意見を聞き入れるつもりがないせいで余計にハードルが高くなっていた。
つまり、人に見られても恥ずかしくないことと、自分でも納得いくことの総和が求められていた。

かといって今までネットに放流してきたものに対して「ああ、なんて素晴らしい文章なんだ! ノーベル文学賞の作品も尻尾を巻いて逃げ出すような出来栄えだ!」という自惚れがある訳でもなかった。むしろ、どう足掻いても自惚れるレベルまで達しないことが問題のように思えた。
そうなれるのであれば気軽に更新できるはずだった。目に見えず手触りもなく何処にあるかもはっきりしない及第点を目指して、形を整えていくしかなかった。

結構楽しい作業だ。
僕は元来、完成形を決められたものを作り上げる遊びが苦手だった。プラモデルとか。
設計図通りに作り上げて、そこから自分好みにペンを入れたりしていくのが醍醐味であるのだろうけど、それは違うというか、怯んでしまうというか、完成形はそれとして置いておきたいし、なんなら自分で作る作業をすっ飛ばして出来上がりをそのまま手に収めたい性分だった。
どちらかと言えばレゴみたいに、正解の形がないものを自分好みに作り上げていく方が興が乗る。ぼんやりとした完成形を目掛けて時間をかけるのは楽しい作業だった。

正解がないものが好きなのだろう。お喋り好きなのもその表れだと思う。選択した仕事も自由の余白がある程度含まれていた。
お役所仕事的な勤めが出来ることは本当に尊敬に値する。僕はそこからドロップアウトしてしまい、形骸的なマニュアル+その場の流れで答えを割り出せるような仕事に就いた。そちらの方が性格に合っていた。

そういえば大学時代に情報系の学部に通って、プログラミングの講義を受けている時にもよく思ったことだった。一から十までを上手く積み上げていくのは楽しいことだが、授業におけるプログラムを組む作業は、暗算で出来るような四則演算を行うようなものだったから面白くなかった。これはプラモデルに似ている作業だった。形式的に、単位を取れるだけの勉強で乗り切った。
自分で決めたものを作る卒業研究はレゴに似ていて好きだったけれど、プログラミングに対して最初に苦手意識を持ってしまったから知識の吸収がろくに出来ておらず、中々上手くできなかったように記憶している。

それに比べれば、書くことは初めから楽しい遊戯だった。
上手く形にできないことが最初は多かったけれど、知っている語彙が増えたり、読んだ本の数が増えて文の紡ぎ方をストックしたことで、昔よりは読めるものにはなってきている。
話すことも同じだ。
もしかすると、今好きなものは高校生くらいの、思春期を抜け出したあたりに、自分の「できなさ」にため息を吐きながらも続けてきたものなのかも知れない。

話すこととと書くことは自分の思いを吐き出すという点では似ているが、微妙に違うなと思ってきた。
話すことは口に出せば消えていくが、書くことは残っていく。口から出る言葉はその場で考えた表層にある思いが多いが、文字に残した言葉は心や頭の深層に近づきたいと思って記している。シリアスに書いたものを人に話すときには、笑い話になっていることが多い。
それぞれが持っている特性というか、力なのだと思う。文章は待ってくれる。理解までの時間を勝手に作ってくれている。

僕にとって、ネット上に転がっている人の書いたものを読む時のスタンスは、理解したいという体勢でいるからそう思えるだけかもしれなかった。
みんなはどんな風に読んでいるんだろう? 主軸がなんだか分からないまま書いてきたこの文をどんな風に読んでますか? 理解? 娯楽?
なんでも良いけれど、何を書きたいんだか分からなくなってきたこの日記をどう〆ようか考えなくちゃいけない。
軸足がブレブレのピポッドをしてトラベリングの笛を鳴らされかねない文章はどう終わればいいのだ。

及第点は遥か遠く、天の川の星屑の一つとして眺めるしかなく、誰もが読めるようなものであるという理想は、夢想家の希望的観測でしかないように思えた。夜は深い黒で僕を包みこんでおり、重たい瞼を無理に開けた瞳で見つめるiMacの画面は無駄に眩しかった。覚束ないタイピングで書いては消して、脳みその中の0と1の単純化された信号を頭の辞書で索引しては、見合う言葉に変換していく。僕の名前は日記です。日記という名前の独り言か戯言か独白です。どう読みますか。娯楽に成りきれないのであれば飛び切りつまらないものに、理解が難しそうであれば手の届かない所へ逃げようと思い立ったのだけれど、貴方はどう読んでくれますか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?