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4月8日「生徒」

朝、目覚めてスマホを開くと、職場の常連だった大学一年生からDMが届いていた。
僕の仕事は飲食関係であり、受験戦争真っ只中の頃、彼は勉強をしによく来ていた。何度か顔をあわせるうちに去年の夏、彼の方から連絡先を教えて欲しいと言われた。一緒に働いている女性ではなくて、僕の方に声をかけてきたことに好感を持った。それに、本当に僕と話したいのだ、というのが伝わってきて嬉しかった。

現代の高校生の連絡先の交換はインスタの相互フォローということだった。ジェネレーションギャップだ。
投稿を見て、気になるものがあればそのままDMにつなげられるから、何かと便利らしい。LINEは業務的なことや、本当に仲良くなった時に交換するようだった。
赤外線でメアドを交換していたあの時代を伝えたら何と思うのだろう。つまらない嘘だと思われかねない。

ゴールデンウィークに地元に帰ったら、ご飯に連れて行って欲しいとのことだった。
歯止めの効かない若さを感じて、まぶしいし、実直であることの素敵さを知った。やりたいと思えることに躊躇わない強さがある気がした。
年齢を重ねるにつれて、年齢を厭わずに学びを連れてきてくれる人が増えた。僕の許容の範囲が広がったというか、くだらないプライドがなくなったのかもしれない。良いものは良いと言った方が良い。

そのご飯の誘いに加えて、高校一の美人の先輩とご飯に行く約束をしたとも言っていた。今から緊張して毎日うきうきがやまないようだった。
大学生ではなかなか手の伸びないような、素敵なお店を予約していた。どうすれば良いでしょう、と言われたが、なるようにしかならん、と思った。
それを伝えるのは不躾すぎるから、年の功ぶん蓄えた、女性のエスコートの仕方を文字に起こして返信した。できる気がしないと言われた。デートの経験が少ないようで本気で悩んでいた。
なるようにしかならん、と送った。

実るかどうかわからない、若さ溢れる恋心を、可愛いと思える年齢になったようだった。昔の自分もそうだったのだろう。
同年代の連中は結婚しているか、彼氏彼女がいる人がほとんどだし、そうでなければ、合コンやマッチングアプリで出会うのが定石だった。そういうものに手を伸ばさないが、相手がいない友人たちは、それはそれで独りを楽しんでいるように思えた。
だからこそ、何年か一緒にいて、途中から恋が芽生えるという話は新鮮に聞こえた。素敵だ。どうやって心が移り変わっていくのか、すっかり忘れてしまった。なるようになって、好きになっていくのだったか。何はともあれ、彼に幸あれと思った。

仕事やご飯を終えて、本を手に取った。
連日読んでいる夏目漱石の『明暗』ではなく、オイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』という本にした。そういう気分だった。

日本に来ていたドイツ人のヘリゲルは、のちに「弓聖」とすら言われた阿波研造に弟子入りし、五年もの間、真摯に弓道と向き合う。その時の経験を、ドイツに帰国した後に講演会で話した。それをまとめた一冊である。
西欧と日本の考え方の違いが弓術には詰まっていて、目には見えない非合理性や直観性を、うまいこと言葉に起こしていた。

それから先生は、稽古弓を私に渡して、「弓術はスポーツではない。したがってこれで筋肉を発達させるなどということのためにあるものではない。あなたは弓を腕の力で引いてはいけない。心で引くこと、つまり筋肉をすっかり弛めて力を抜いて引くことを学ばなければならない」と言われた。
日本の弓術/オイゲン・ヘリゲル/P26−27

これは弓道をやっていた身としてはよく言われたことだった。引こうと思わずに引いて、中てようと思わずに中てること、それができれば一人前だと口すっぱく言われた。紛れもなくどうかしている言葉だ、と思っていた。ヘリゲルもそれに頭を悩ませていた。

「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは誰が射るのですか」
日本の弓術/オイゲン・ヘリゲル/P34

その通りである。
完全に自分を消し去って弓を引く、という感覚は意味不明だ。無になってしまったら、弓道以外でも何もできない。
スーパーの買い物とか、映画を見るとか、コーヒーを飲むとか、恋をするとか。心があるからこそ行為が伴うわけであって、無になってしまえば弓矢は地面に置かれっぱなしだろう、と思った。

「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」
日本の弓術/オイゲン・ヘリゲル/P42

ずっと言ってる。
無になれ、何も考えるな、という課題を押し付けてくる。
阿波師範はその後、瞑想に耽るように弓を引き絞れば、的と私が一体になり、つまりは私と仏陀が一体になるということでもある、と言う。それゆえ、的を狙わずに自分自身を狙いなさい、そんなことをヘリゲルに伝える。
なるほど、思った。的と自分という関係性であればスポーツとしての弓道だが、そこに心が加われば弓術になるのだろう。

弓道は動きのある座禅みたいだと思っていて、心が休まると感じていたのは、きっとこの「無」の感覚があるからなのだろう。
自分と向き合うことで的にも近づいていける。高校時代の僕はその尻尾を掴みかけていたのかもしれない。

ここまで書いてみたが、この本の良さを少しも伝えられなくてうんざりしてきた。
今年読んだ中でも、というか、今までの読書の中でもずば抜けて素晴らしい体験だったのに、観念的すぎて心の動きを伝えられない。掘り下げる思考も、文字に起こす力も、全く足りていなかった。
本当にすべての人に読んでほしい、と思ったのは初めてだった。これ以上けがしてしまう前に終わろう。

最後に、今日の朝、年齢を超えた学びに対して感じた新しい心の動きを、うまく言葉にしている文章があったので、それを記して終えようと思う。
ちょうど、彼と僕の姿が重なったように思えた。

どこまでも一つの体で先生であり生徒である
日本の弓術/オイゲン・ヘリゲル/P50

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