二十五歳、夏
歯医者で「甘いものを食べる回数を減らしましょう」と言われたその足で近所のパン屋に行き、甘いパンを二つ選んだ。
二階のイートインスペースでカウンター席に座る。隣には学生にみえるカップルと主婦にみえる女性、後ろのテーブル席にはおばあちゃん二人組。
ここのメロンパンは手でぎゅっと握り潰せてしまうくらい柔らかい。一昨日食べたコンビニのメロンパンは、固くてずっしりしてた。
ツイストされた縦長のきなこドーナツは、端と端を食べると絡まりがほどけて、二本の棒に分解された。お会計の時にレジの奥に見えた、肘に粉をつけたパン職人の背中。彼が二本の棒生地を丁寧に巻き巻きする姿を想像する。
今日は金曜日だ。時刻は13:25。休職したての頃は居心地が悪かった平日真っ昼間の時間の流れにも、すっかり慣れた。むしろその豊かさに無感動になっていたなあと小さく反省する。
昨晩は大学時代に国際協力を志す学生コミュニティで出会った友人二人とzoomで話した。一人はファンドで働きながら大学院で金融の研究をしてる。一人は大学生の時に立ち上げたNPO法人を経営しながら、フリーランスとしてWEB制作の仕事をしてる。
私がパンを食べているこの瞬間、彼らは東京で働いてる事実をふと思い出す。「社会を良くしたい」という純粋な想いを燃やしていた大学生の私たちは、それぞれが選んだ形で社会に出た。三年ほどが経った今、彼らの想いは変わっていないどころかより熱を帯びていて、できることも増え、立派すぎる社会人になっていた。「社会を良くする」という言葉が現実味を帯びてきたことに感動した。
二年前にその道から(強制)離脱し、その後(意思ある)漂流を続けた私は随分遠くに流れ着いた気がする。色んな意味で多分もう戻れないなあと思う。
そのことに対して一年半前まであった劣等感や焦り、罪悪感がすっかり無くなっていること、代わりにあるのは、社会と向き合い走り続ける友人達への心からの尊敬と感謝、そして自分の人生への愛着であることに気づく。
ゆっくりパンを食べ終え、電車に乗ってヨガを受けに行く。最近、新しい場所であまりやったことのないタイプのヨガクラスを担当することが決まり、先週はその研修があった。今日も勉強のつもりで受けに行ったのだが、気持ち良すぎて終始うとうとしたままクラスが終わった。ヨガスタジオを出て赤いレンタルサイクルに乗り、気になっていたカフェに行く。
「遊ぶような感覚でできる仕事だけで生きていきたい」という我儘を、今度の冬まで自分に許すことにした。正確に言うと、お国の制度が許してくれたから、私自身も許すことにした。
“遊ぶような”の意味を暫定的に言葉にするなら、いわゆる業務そのものが楽しくて、ストレスが(ほぼ)無く出来る、という感じ。仕事ってそんな甘いもんじゃないよと思っていたが、ヨガはまさにそんな感じなのだ。ヨガの仕事を始めてもうすぐ五ヶ月が経つが、こんな幸せな働き方があって良いのかと毎度感動する。
最近よく「ヨガという新たな道に決めたんだね」というニュアンスの言葉をもらうが、実は他にもやりたいことがたくさんあって、何をどんなバランスでやるかをパズルのように組み立てる過程を楽しんでいる。
カフェで働くというのも人生で一度はやりたいことの一つ。今日来たカフェも求人が出ていたので雰囲気を見に来たのだが、店員さんたちがお洒落すぎたのでやめた。パソコンを開き、別のやりたい仕事にエントリーするため業務経歴書なるものを初めて書いた。もう小一時間パソコンをカタカタして、お腹が空いたので家に帰るバスに乗った。
今日もなんでもない一日だった。
昨日もおとといも、本当になんでもない一日だった。
だけど、バリバリ働いていた二年前の私が未来の今日を「25歳の平日vlog 」として観たら衝撃を受けるだろう。それはもちろんネガティブな方の衝撃で、理想との乖離に困惑し、多分観なかったことにして仕事に戻る。
忙しくなった十年後の私が観たらどうだろう。この時間の流れを奇跡的だと羨ましがるかもしれない。いや、十年後も奇跡的じゃなくて当たり前だと良いなと願う自分が4割、忙しい日常もきっと楽しいんだろうなと思う自分が6割といったところ。
先日、月に一回お茶をする友人に「今は、頑張って来た過去の愛ちゃんからのプレゼントだよ」と言われて、そうかと思った。物心ついた時から二十三歳まで、かなり生き急いでいたように思う。頑張ることを休んだ記憶がない。身体を崩して以来そんな過去をどこか否定的に捉えていたが、あの頃の「肩ひじ張った愛ちゃん」が二十五歳の私にこの日常をプレゼントしてくれたと思うと、とたんに愛おしく思える。
プレゼントのように特別で貴重な日々を、時に有意義に活かそうとしてみたり、時にただただ消費しながら、明日ものんびり生きていく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?