34歳、終活はじめました。
※この記事は従来の葬儀や法事の形を批判する記事ではありません。あくまで私個人のライフスタイルに合わせて進めていく「終活日記」です。
はじめまして。
私は現在Web制作会社に勤めているバリバリのキャリアウーマンではないタイプの平凡なOLです。
子供はいませんが、結婚約10年になる夫との関係は良好。
仕事にも人間関係にも恵まれ、充実した毎日を過ごしています。
この世知辛い時代において、けっこう私は恵まれた環境に身を置いていると思います。
本当にラッキーです。
そんな私の唯一の心配事は「自分の死後」のこと。
34歳にもなると親戚が亡くなったり、家族が病気になったりと「死」について考える機会が増えたように感じます。
自分の身の回りの人が死んでしまうことは悲しいことです。
いつか人は死ぬとわかっていても受け入れ難いことです。
でも「死」は心配事とは違うかもしれません。
なぜならこの世に生まれたからには「死」ということは必須の出来事として周知のこと。
また、どんなに悲しみに暮れても身近な人の「死」を経て、残された家族がやるべきことはある程度のテンプレートが存在します。
「心配することはない。やるべきことはある程度わかっている。」
と、これから訪れるであろう身近な人の死に対して強がってみることさえしてしまいます。
(目頭がツンと熱くなっていることは内緒です)
もし、私の身近な人が死んでしまったら、然るべき手続きを踏んで、葬儀屋を手配して、親戚に連絡して・・・ググってみれば、何をすべきか手順を調べることができます。
そのため、自分で動いてなんとかするのでしょう。
(悲しみのなか、それらの作業を進めるのは難しいと思うけれど・・・)
自分の死後を想像してみた
それでは、もし自分が死んだら?
手も足も動かず話すこともできない屍になったら?
残された家族は私が死んで悲しむ間もなく、諸々の手続きやら葬儀の準備等でてんやわんやです。
その時、死んでしまった私は何も手伝うことができません。
(幽霊になってポルターガイスト現象で何かしらできれば良いのだけれど・・・)
さらには、仏教方式で法事を進める私の地元では、初七日や四十九日、さらには死後何十年にも渡る年季供養が続きます。
法事は故人を偲んだり、身近な人の死を受け入れるための大事な通過儀礼だと思います。
ですが、自宅が実家から離れた場所にあり、両親も親戚もみんな離れた場所で暮らすわが家では正直に言って法事はどうしても「負担」になってしまいます。
お墓や仏壇がある家庭では誰がそれらを継承するのか、管理するための労力と費用の問題も出てきます。
自分の死後、残された家族や親戚が自分の法事の度に
「あぁ、交通費が」
「あぁ、今週は仕事を休まなきゃ」
「あぁ、もうすぐ法事があるんだった」なんて言っていたら悲しすぎます。さらには
「位牌は準備するのか?お墓はどうするの?誰も面倒見れないよ!」
なんて言われた日には「もう私のことなんて忘れてっ」と思うことでしょう。
法的な手続きや法事に関することだけではなく、遺品整理や関係各所への連絡など、悲しみに暮れながら遺族はパタパタと動かなければなりません。
そんなの申し訳なさすぎる。
もしそのせいで、残された家族が倒れでもしたら?
心配です。
とにかく心配です。
終活を決心した理由
私は現在34歳で子供もおらず、ほぼ毎日定時で帰れる仕事についています。
幸い体は健康そのもので、多少無理しても自由に動き回ることができます。
いつ何が起きるかわかりませんが、直近で死ぬ予定は今のところありません。
物理的にも精神的にも今までの人生の中で一番安定しているのかもしれません。
だからこそ思い立ったのです。
就職活動じゃない方の終活をしよう、と。
終活という作業を一つずつこなすことで心配事を減らしたいのです。
さらには
人生の終わりを意識することで、少しだけ今の自分を顧みることもできそう・・・。
というおまけもついてきそうです。
心配事を減らすこともでき、自分自身の中にも何か変化が生まれるのか?
不謹慎にも一石二鳥狙いです。
そんな34歳の、終活の様子を記録していこうと思います。