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3. 強さとは、思いやりや配慮、慈悲をもって、自分や他者を受け止める力、大切にする力。

新生活のはじまり。兄パパの活躍、愛華の病気悪化。

家族全員が、新たな幕開けに希望を抱きつつも、不安の方が大きかったであろう。二歳になったばかりの妹は、変化がわからないながらにも(いえ、むしろ乳幼児は繊細ゆえに、誰よりも環境の変化に敏感かもね)、家族ひとりひとりの心の不安を感じ取っていたかもしれないね。母や兄は、父が家にいなくて心細かったに違いないし、時には腹立たしさすらも感じたであろう。それ以上に、子育てによる疲労や不安が募り、惨めさやくたくたで燃え尽きた感、疎外感や孤立、憂鬱さ、神経をすり減らす思い、落ち着かなさや無念さ、歯がゆさを感じていたかもしれない。

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兄は小学三年生にして、子育てを担う小さなパパとなる。母は「兄パパ」と呼んでいたようだ。息子が代わりに子育てを担ってくれている状況を、父がどれほど感謝していたであろう。高校卒業後ストレートで医学部へ進学している同期と比べると十歳ほど年の差があったこともあり、真面目で誠実、正義感が強く謙虚で負けず嫌いな彼は必死のパッチであったに違いない。そんな中、妻の不安や葛藤に寄り添えない無念さや歯がゆさ、肩身の狭さ、見てほしいざかりの息子を見てあげられないもどかしさや寂しさ、かわいくて仕方がない時期の娘たちを抱く時間が減った残念さも感じていたであろう。

小さな少年の双肩には、目に見えない重みがずっしりとのしかかっていたはずだ。当時の幼かった兄に対する感謝を、母はよく口にしている。近い将来に、父にも、そして両親が二人合わせて、「よくがんばってくれた、あなたがいたから乗り越えられた。時には柱となり、時には枝となり、家族を支えてくれてありがとう。」と、兄に改めて伝えてくれることを願う。そうすることで、当時の少年が「両親に見てもらいたい!」とおもっていた気持ちや叶わないことで広がっていた傷が、すこしでも癒やされ救われると願って。

そして。間もなく、私の持病が急激に悪化。未熟児ゆえか遺伝ゆえか、はたまた別の理由ゆえかは不明だが、生後八ヶ月の検診でアトピー性皮膚炎と診断を受けていた。以前からも顔や脚、腕などに症状が出ていたが、市内の空気や水との相性が悪かったのが決め手に。全身を搔きむしるため、毎朝シーツが血で染まっていた状況。父は尋常でなく心配してくれたようで、ハウスダストが原因であったため、「カーテンを毎日洗ってほしい」と母に依頼したらしいが、子育てで大変な中、カーテンを毎日洗うのは現実的ではない。実際にケアをしてくれていた母は、父の要望に応えられない苦しみや、全身がかさぶたと血だらけになる娘を見ては、胸が張り裂けそうな思いや情けなさで苦しんでいたであろう。

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当時の写真を見ると、自宅で点滴していたり、顔や身体中痛々しいあかぎれがあったりと、印象的だ。高校生くらいからか、アトピーであることすら気が付かれない程度に収まったが、今でも乾燥肌やアレルギーに悩まされる身。当時は、今とは比べ物にならないほど痒かったに違いないし、「(兄や妹にはない症状なので)なんで私だけええ!」と惨めさや悲しさで泣き叫んでいたであろう。ちいさな身体でよくがんばったね、つらかったね、かゆかったね、なでなで、と心底おもう。アレルギーを考慮して、母が懸命に食事内容を気にかけてくれていた。が、当の本人は、家では禁止されていたお菓子をもらいに、ご近所さん宅に遊びに行かせてもらっていたようで、図々しさと滑稽さ、必死さ、本気でほしかった想いがもはや愛おしい。「愛ちゃんには驚かされること多いのよお。」と、母の中で笑い話として挙がる昔話のひとつである。

一年強の暮らしを経て引越。故郷へ。家族で再出発。

受け止めていく他ない生まれながらの特性に対して、どうしようもない思いをもやもやと抱き続けていた私。親から見てもらいたい気持ちがあっても妹に意識を持っていかれることで、遠慮がちに切望する思いを感じていたであろう兄。おとなしくとも父や母に構ってもらえる機会を損ないがちで淋しかったであろう妹。兄パパや姉とどれほど一緒に過ごせても、幼児の妹にとって母親という存在は偉大であり特別である。それぞれの思いを感じ取っていたであろう両親も心苦しく、途方に暮れ、家族のひとりひとりが苦しんでいたのではないであろうか。

意を決して、一年と二ヶ月間お世話になった地を離れることを試すしかない、と踏ん切りをつけた両親。母は育児の大変さや慣れない環境だけでも一杯一杯な上に、私の病気も合わさり、随分と精神的に参っていたようだ。お金にさほどの余裕がない中、念願で購入したばかりの家を一年と少しで手放すのも悔やまれたであろう、心残りであったであろう。また、多忙な中での手続きや引越、販売の段取りなどは煩わしかったであろう。そして、最懸念のひとつであった息子の再々転校。まだ小さな少年が抱えるであろう、再び友人と別れる悲しさや落ち込み、不安や動揺、困惑、緊張、疲労には、胸を痛めたという。兄の痛みを感じつつも、優先してあげられない申し訳なさを母は感じていたが、もはや他に打つ手はなかった。兄にも事情を説明したところ、それまでいやがっていたものの、「愛華のためなんやね、それならいいよ!」と意を決した表情で受け取ってくれたとのこと。優しい兄に恵まれてきたんだなあと、三十年の月日を経て改めて感じたのであった。

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空気と水が清い母の実家へと再引越する運びとなった、ちょうど五歳の誕生日。希望の光を懇願する桜花の候。兄は五年生に。私は一歳でお世話になった保育所に再入所。このときの保育園側の粋な計らいに感謝している、と母は謂う。年中組の年齢であったが、これまでの流れを受けて年長組に入らせていただけることに。これまでずっとクラスで最年長だった私がいただいた、最年少になる体験。六歳児と五歳児では体格やできることが随分と異なるはず。超活発な私は、彼らと一緒に運動場や遊具で遊び、泥だらけになりながら駆け回った記憶がある。

すこしお兄ちゃんお姉ちゃんなおともだちと過ごした時間が、背中から学んだ何かが、私の成長を開花してくれた機会であったに違いない。既存の教育制度に囚われない先生たちのご配慮や、そうさせてあげたいなとおもっていただけたほどに、母が築いてきた先生たちとの信頼関係に、心より感謝している。興味深いことに、自分よりできることが多い年上の中で一年間もいれば、負けず嫌いになりそうなものだが、幼少期からその印象はない。それまでに、母の熱心な教育・愛によって整えてくれていた、それなりに何でもこなせる環境で育まれた、自尊心や自己効力感が高まっていた状態、競争での勝ち負けではなく、ひとりひとり違っていいし違うものだという“個を重んじる姿勢”を心のどこかで感じていたからかもしれない。おとなになってからも遺っていた疑問がある。幼少期からまったくおなじ習い事をし、その中の多くにおいて一際芸が秀でていた年子の妹に対して、私が劣等感を抱かなかったのはなぜだろう、と。まさにこの背景が理由に値するね。

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さて。妹にとっては大きな転機となる。三歳半前後にしてはじめて、母の手から離れ、保育園へ入所。母との三年半ではどのような時間を紡いでいたのであろう。ずっと見守ってもらえる安心感に包まれていたのかもしれないね。妹は私といつも一緒にいた。彼女の遊び相手はいつも一歳半離れたおねえちゃん。それゆえに学びがはやかったようだ。二歳の誕生日頃には、『平仮名や漢字に興味をもって、かなり読める。英語のお歌が好きで、one, two と階段の昇り降り時に数えられる』との記録がある。(天才やなあ♡ うちのこはかちこいかちこいなあ♡)また、妹と私が赤ん坊のときは、当時話題になっていた『うつぶせ寝』を母が意識していたらしく、おかげ様でか、二人ともに運動神経が優れている。滑り台の昇り降りは私と同時期の一歳半にははじめていて、二歳の後半には、『愛華と一緒に、鉄棒にぶら下がり、足を入れ、くるりと一回転ができ、周囲を驚かせる。手先も器用で、着せかえ人形で遊ぶ。』とある。三歳では、ことわざカルタ遊びのおかげか、『一年生の漢字がいくつか読め、犬も歩けば棒に当たるの諺が言える。』とのこと。かしこいかしこいと、母や兄からたくさん褒めてもらっていた妹の、ぼーと口を開けてへぇーそうかな、とすこしうれしそうに笑う表情が目に浮かぶ。兄がおとなになってからもたまに口にする言葉に「かしこいかしこいなぁ♡」があり、懐かしさや聞き覚えを感じるのは、幼少期によく捧げてもらっていたからであろう。

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すこしばかり時は流れ。兄が「塾に行かせてほしい」と両親に直談判。兄の人生の中で片手に入るほど少ないお願いのひとつであろう。小学校受験をした仲の良い同学年の従姉妹たちが、中学受験に向けて励んでいる姿を意識したことがきっかけであるそう。父は兄に対しては比較的厳しく、また父と母の育った地域環境の違いもあり、私立中学に通うことに首を傾げたが、母は兄の願いを強く応援し、叶う形となる。

一方、お花大好き、動物大好き、お勉強大好き!な私は、電車で遠路通塾している兄を横目に、「私も塾に行きたい!」と話していたそう。二つ通ったそれぞれの幼稚園で、公文や能力開発スクールにて学ばせてもらっていたので、手持ち無沙汰に感じていたのであろう。ことわざや九九、漢字を覚えたり、知恵を鍛えるワークで座り学習をしたりと、『遊びの中から、もじ・かず・ちえが自然に身につくよう』という教育方針の学び場であったようで、大層たのしんでいたようだ。無意識下で必要としていた選択に気づき、与え、背中を押して支え続けてくれた母に深謝である。

知育、徳育、体育。異彩との出逢い、姉妹の淡いW初恋。

母の生まれ育った地に帰ってきてから早くも一年。縁側の日だまりに心なごませる季節を迎え、三度目の幼稚園生活がはじまる。妹とおそろいの制服を纏い、一緒にバスで登下校。わくわくしていたとはおもうが、物心ついた年齢であるにもかかわらず、当時の記憶はあまり鮮明ではない。

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遊び感覚で国旗や英語など様々な勉強をさせてもらえたことで刺激された好奇心、自然に恵まれた環境でヤギさんや動物へのえさ遣り体験を通して認識・発見した他哺乳類の存在、おおきな木製の遊具にて満面の笑みや歯噛みしながら繰り返し挑戦するたのしみ、運動会にてかっこいいお衣装を着て楽器を演奏しながら行進したときの緊張と誇り、おともだちに異彩をもった子が何人かいて違和感なく手を差し伸べ共に学び合ったよろこび、おじいちゃんやおじちゃんが優しい表情で両手を広げて通学バス停で待ってくれていたときに感じた家族の温かさ、私たち姉妹にとって幼馴染的存在となる同い年の男前兄弟との出逢い・W初恋、などが頭の片隅で微笑んでいる。

気が利いた配慮のある園であったなと感じ、気になったので調べてみると、幼児教育の研究に努めている、浄土真宗本願寺派が経営している園であった。『子どもどうし、先生、両親との心のふれあいを大切に、子どもたち一人一人の未来が個性豊かに広がり、 可能性の芽を大切に育て人生の礎』となることを願い、『障がいの有無に関わらず、子どもには子どもの特性、そして個人個人の特性があることを尊重し、その特性を上手に活用することで、障がいのある子どもは自然と障がいのない子どもを参考に、障がいのない子どもはより優しさ、助け合いの心を学んでほしい』と願ってくださっている。このような徳や調和、助け合いを大切にしている環境で計二年弱の時間を過ごせたことは貴重な経験であり、内なる豊かさを育んでくれた機会だった。奉謝。

ところで。六歳のときに、人生で強い印象の残るベスト10があったことを思い出した。成長ホルモンの検査入院で見慣れない病室にて、兄と隣り合わせのベッドでお絵描きしながら笑顔を浮かべていた翌日のこと。退院祝いに向かった隣のサイクリング場で、かなりおおきな自転車にまたがりうれしそうにしているおてんばさんは、半信半疑で愛華なら大丈夫かも? と父が好意で手を離した数秒後に勢いよくこけて、大泣きしていた。顎を縫う結果になるのだが、車で病院に向かっている際、あまりに痛そうに泣く私を見て申し訳無さもあり胸が痛かったのか、私の気持ちを痛みから逸らそうとしてくれたのか、父が「チョコシェイクを飲むか?」と尋ねてくれたのが琴線に触れたようだった。「痛すぎてそんなん飲まれへんよおおお」な状況でのすこし無茶な提案そのものが、本人よりも父が痛みを感じていたことの表れのように感じ、ハッとする。当時の父の、母の、焦りや不安を今抱きしめたい。

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正義感が強い調停役。問いかけと納得感が核にある小学生。

一歳から六歳まで、保育所、幼稚園、幼稚園、保育所、幼稚園と点々とした流れを経て、目と鼻の先にある小学校へ六年間通う一年生に。優秀だった兄は望み通り市内にある中高一貫校に受かり、中学一年生に。六歳異なる兄との生活時間の違いは、この時期から定かとなる。今おもうと、母は兄の中学受験にも尽力していたであろう。兄はもちろんのこと、母もよくがんばったね。

さて。歪みの原因となっていた苦が積もっていた六年間の振り返りを記していきたい。幸運にも、関わっていたそれぞれのコミュニティにおいて居心地が良かった小学生時代。兄が幼い頃とは異なり金銭的に安定した家庭環境となり、ありがたいことに空腹に苛まれることは一度もなく、丁寧に両親にお願いすればどのような習い事にも通わせてもらえていた。バトントワリング、トランポリン、水泳、新体操、エレクトーン、そろばん、習字など、いつも妹と一緒であった。地域主催や地元の方、母の旧友が教えてくれるものがほとんどで、お月謝が無料か安いものであった分、親による協力の比重が高い。順番で回ってくる役割を担うことも、苦手ながらも懸命に手を尽くしてくれた二人分のお衣装つくりも、母は本当によくがんばってくれた。ありがとう。

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中でも、最も好きで六年間取り組んでいたハンドボールでは、小柄ながらもセンターとして活躍し、全国大会常連チームからの声掛けがあったほどには関係者から認めてもらえていた。それでも、全国大会に出場した鋭い活躍をする一歳下のもうひとりのエースには羨望を覚えていたようにおもう。学校の中では(芸術以外の)学修は難なくこなし、注目されやすい走りの速さで市で一位になる程度には抜きん出ていた。博愛ゆえか、当時から一定のグループに属すタイプではないものの、男女共に仲が良く、男子たちと毎日ドッジボールや木登りをし、多くの場合は輪の中心にいたようにおもう。

いわゆる仕切り屋で、照れを抱きながらも人前に立ち、学級委員などの比較的面倒がられるが必要な役割をさほど躊躇なく担当。動物アレルギーのため触れられなかったが、かわいいうさぎやにわとりと心通わせ合う飼育係に憧れ、緑のネットに食い入るように顔を近づけてひっそりと覗いていた哀切な様はほとんど知られていない。

祖父や父の影響があってか、兄妹同様に正義感が強く、いじめに対する嫌悪感が強く、NOを示したり調停役をしていていた。体が弱く学校に通うのがむずしかった転校間もない友人のお家を毎日訪問して励ましたり、お家で一緒に宿題をしたり。幼稚園にてダウン症のおともだちとペアで行動していたことで、繊細さや配慮、異なるを知る、知真の強さたるを育ませてもらったのかもしれないね。ありがとう。どれほどしあわせをお披露目していようとも、悩みがなさそうに見えようとも、ひとりひとり、他者にはわからない苦しみを抱えているものだ。だからこそ、それぞれが、ひとつひとつの言動に意識を向け、無意識に不必要に無慈悲に、他者やご自分の傷を深めるような状況を作らないことを心から願っている。

そして。当時から問いかけと納得感を大切にしているなぜなぜっ子で、世の既成概念やおとなが違和感なく抱いている固定観念に疑問を感じ、自分が納得できるまでは、おとなを前にしても物怖じせず、問いや意見を投げかけていた。夢は総理大臣になること、好きなお菓子は森永のラムネとチョコボールのキャラメル味な、小学生であった。

響きとしては、それなりによくできた子かもしれない。が、うーん、なにかが引っかかるなぁ、スッキリしないなぁ。首をかしげていると、鍵が何重にもかかっていた心の中の引き出しがポンポンポーンと飛び出してきて、小学校時代にあった影やその原因を思い出させてくれた。

言動や感情の奥にある願いや傷に手を差し伸べる。繊細に、忍耐強く。

最近気づいたのだが、小学生の頃からずっと、祖母と母に対して強い嫌悪と渇望を抱き続けていたようだ。というのも、二人の言動によって、誰よりも本人たちが苦しみ傷ついていたのだが、彼女たちを大切な存在として慕う子や孫である私や兄妹も、彼女たちの傷つく様をそばで見続けてきたことで、間接的に傷を負っていたからであった。

故意の有無にかかわらず、また、矛先が自分に向いていようといまいとも、誰かの言葉や行いが見えたり聞こえたりしたことで、胸が苦しくなる体験を誰もが多かれ少なかれしているであろう。“ああ、本当は知りたくなかった、見たくなかった、聞きたくなかった”そんな憂愁に閉ざされた心の叫び声が反芻する。知ってか知らずか、意図があろうがなかろうが、端を発する言動をしている本人は、受け手とおなじもしくはそれ以上に心の奥底で胸を痛めている。また、本人は、口にすればするほどに、無意識下でご自身を傷つけているに違いない。どれほどに取り繕うとも、人の感情は、言動や在り方にて明確に表現される。八正道の「正語」と乖離のある言葉を発している場合、意識上と無意識下の両方にて、大変苦しんでいるであろう。

過去や今、何をしていようともしていまいとも、私たち、ひとりひとりは、生まれたての赤ん坊とおなじように、汚れなく清らかな存在であり、繊細で豊かな感受性を胸に秘めている。自己防衛のために、哀しみなどの痛み・傷みから目を背け、鈍感さという名の分厚い鋼をぐるぐるに巻きつけて、傷に気がつかないようにしていようともだ。どれほどに図太く見えようとも、ただ麻痺していて気がつけていないだけの可能性が高い。瞳を凝らせば、心身の中核でちいさくちいさくなっているご自身の背中が視えるはずだ。

どうすれば、自分の言動や感情の奥にある願いや傷に向き合えるのか。どうすれば、自分の傷に手を差し伸べられるのか。多くの場合、自分の満たされない気持ちに向き合うことは、自分の弱さを見つめることとなり、大きな痛みを伴う。だが、この痛みは、良薬口に苦し。誰かから心なく無慈悲に傷つけられる痛みとは天地の差がある。自分の奥深くに蓋をされて潜んでいる哀しみは、きっととても苦しいものであり、治さなければならないと感じている切実な願いの表れである。だから、痛みを伴いながらでも向き合ってほしい。誰よりもまず自分を大切にしてあげてほしい。自分の弱さ、自分の存在そのものを受け止め、認め、慈しみ、労い、赦し、愛してあげてほしい。素直に、謙虚に、繊細に、丁寧に、誠実に。

強さとは力ではない。強さとは、思いやりと配慮、慈悲をもって、しなやかにたおやかに、自分や他者を受け止める力である。強くなるということは、自分自身を大切にできるようになってくる、ということだ。自分や他者を、観察し(observe)、問いかけ(ask)、聴いて(listen)、寄り添う(compassion)を繰り返していく中で、慈悲喜捨を育む。共感し合えたり寄り添い合えるおともだちを増やすことも助けになるが、自分自身が一番の親友となり、いかなるときも、どれほど些細な事柄であるかのように捉えようとも、繊細に、忍耐強く、自己共感してあげる。さすれば、心の内に、安らかなる表情をした仏様の姿を、リトルなあなた自身を拝める日が訪れるであろう。

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コラム:正語(しょうご)

仏教は人間の行為を「 身(しん)・ 口(く)・ 意(い)の三 業(ごう)」に分類します。「口業」すなわち言語行為を 糾(ただ)す修道法が、「 八正道(はっしょうどう)」の三番目の「正語」です。「正語」とは、正しい言葉を語ることです。 仏陀が説かれた世俗の人々の守るべき十の戒め(十善戒)のうち、実に四つまでが言語行為に関わるものです。偽りを言うなかれ(不妄語)、ふざけたことばを言うなかれ(不綺語(ふきご))、悪口を言うなかれ(不悪口)、仲たがいさせるようなことを言うなかれ(不両舌(ふりょうぜつ))を実践することが、正語ということになるでしょう。 正しく語るためには、正しく聞くということが大前提になります。古来、仏道は「 聞法(もんぽう)」にはじまると言われてきましたが、真実を語る仏法に生き方を聞くとき、はじめて他に正しく語りかけることもまた、出来るのです。(太)




お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。