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他の人におもいやりや寄り添いをもって生きていく。それが、いま、ひとりひとりにできること。

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胸が苦しくなる。張り裂けそうなほど痛い。コロナに罹っている中の、一人のカタチ。このような状況がすべてではないだろうからこれを視て不安だけを募らせることもないだろうし、その反面でこのような状況に遭っている人がどれほどいるのかも視えてもいないから安直に捉えるのも違うんじゃないかなとおもう。日本では未だ想像しがたい絵だから、冗談のように他人事のように感じるかもしれないね。ドイツやイタリア、アメリカに住む友人は、先日電話で憂鬱そうにも前向きにもそれぞれが感じている受けとめている気持ちを伝えてくれた。わたしが視ている絵と彼らの視ている絵は格段に異なる。

3月21日24時間の死亡者数が800人近くに達し、合計で4825人が亡くなったイタリア

では、この状況がリアルなのかもしれない。わからない。この動画は、

北イタリアでウイルスに感染し現在治療中の患者男性が、感染が拡大するヨーロッパと世界に向けてメッセージを送った

もの。わからないからこそ、大切な何かを見つめるように、ただ気づいていく。ただ一人のリアルとして目を向けたいとおもった。

十日間でアタリマエだった何かが変わった

彼は、自身の移動により気づかない内に感染。乾いた咳など気になる症状はありつつも、一か月を経ても、特別意識を向けるほどではなかったようだ。ある日、高熱が出て、翌朝に倒れたとことで、おかしいと気づいた。一方で、潜伏期間内に、同居していた愛する70代のお父様に感染させてしまったようで。彼自身が発病し病院内で隔離されている中の、十日間でアタリマエだった何かが変わった。お父様もコロナが発病し、長らくの猶予がない中で死をお迎えした。彼は、愛する人の死を前に、ハグをしてお見送りすることも、お葬式にも出ることもできない無念さを語り、大切な人を守ってほしい、大切なものにきづいてほしい、と心からのメッセージを贈ってくれている。見るたびに、涙が止まらなくなる。でも、ただ一つのありのままの現実から目を背けたくはないとおもうから、数日前から繰り返し見ている。

リアルにふれる機会と自分事化

わたしたちは、生きている中で、死や死にそうな状況にふれる機会は多くないだろう。わたしの30年間の人生においては数回かな、、老死した祖父と祖母、海外旅行先の飛行機内で脳梗塞になりセスナで運ばれて一命をとりとめた親戚、自殺未遂を繰り返していた親友、スカイダイビングで頭蓋骨骨折し二か月間近く ICU に入り奇跡的に一命をとりとめたルームメイト、いまにも息絶えそうな昆虫や小動物。。大切な人や知らない人の死をお見送りしたり、目の前に存在しない状況への悲しみつらさを嘆く機会はあっても、彼のように呼吸器をつけて、いわゆる補助なしでは生きられず嘆く "リアル" を感じるふれる機会はなかった。だから、自分事化して捉えるのがむずかしいのかもしれないね。

死の迎え方

毎日。どこかでだれかが、新しい命が祝福を受けて今世に誕生したり、今世を終えて次の輪廻に入る準備をして去っていっている。コロナに関わらず起こっている事実。ふと気づいたことがある。老死、突然死や事故死、疫病の三つの違いはなんだろうかと。体も元気な若者から中年の多くの人は、死の迎え方を想像したことがないだろう。なんとなぁく想像していたとしても老死かな。寿命がきたらかな、みたいな。心の準備が整っていないトキに突如として降りかかってきて誰かの助けなしにはどうしようも対応できない何かは、本人やまわりの人に驚きや動揺、不安を一層与えるだろう。その中でも、単独ではなく、蔓延するもの。これが疫病であり、今回のコロナが当てはまる。関わる人数が多いだけに、病だけでなく、驚きや動揺、不安など気持ちや波動も伝染しやすい。毎冬、感染を懸念されるインフルエンザと異なるひとつは、薬を飲みさえすれば大体は治るという希望が未だ視えないこと。総じて、心の病も疫病もどのような病も、目視できるサイズの物質ではないため、絶対的な確信がない中では、認識を高めてもしすぎることはないのかもしれない。

目を閉じると、どのような顔が浮かぶだろう

わたし自身、わたしの大切な人、その先の大切な人。
あなた自身、あなたの大切な人、その先の大切な人。
護っていきたいね。ひとりひとりが意識を向けていきたいね。

認知

各国で、空気汚染度や気候、コミュニケーション方法、衛生状況や衛生に対する習慣、医療機関の状況、政府の対応、すべて異なる。医学の専門家ですら視えていない何かが多い中で、専門外のわたしたちが理解度を深めるのはむずかしくもあり、また、情報過多な現代で情報を視るチカラが育まれていない中では、困惑を招くことはあっても、適切な判断を個人ひとりひとりに促すことはむずかしいようにおもう。そもそも、正解というのはない。できることを、自分で考えられる範囲でしていくしかない。あなたの人生はあなたのものだから、他の誰かの意思ではなく、自分の意思で決めていくに尽きる。運も体格も臓器もみんな異なるからね。ただ、誰かに接することなく過ごすことは共生している中ではありえなく、目を背けたくとも、あなたの在り方が他の誰かの人生に、知らず識らずのうちにかかわっている事実を認識する必要はあるだろう。

医療関係者の生活、人生を思い浮かべてみた

コロナにかかった先に、自宅療養だけですむ場合もあれば、病院で医療関係者に手を差し伸べていただく必要がある場合もある。まわりの大切な人に移さなくてすむ安心感はあれど、(未だ知り合いでなく、未だ大切な対象でもない)医療関係者には移してしまうだろうし、病院にて受ける側は防げない。彼らはいかなる状況でも、ただただ受けとめくれている。でも、忘れてはいけない。わたしたち、ひとりひとりに生活や人生、その選択があるように、彼らにも彼らの生活があり、選択があり、人生がある。わたしたちができることをしない中で、助けてほしいトキだけ手を差し伸べてーと願うのは、違う気がする。どうだろうか。

医療関係者の精神的負担に対するケア

イマ、病院で携わってくれている人たちは日々どのような気持ちで過ごしているだろう。救急医療に携わられている医師は毎日このリアルにふれているのかと想像するだけでつらく涙があふれる、彼らの精神的負担に寄り添えたらとふと願ったりする。長い間、救急医療に携わってきた父の、精神的負担は測り知れないな、、と改めて彼に寄り添いたくおもう。(家には、大きな本棚四つ分の医学書や書籍があるが、タイトルに「死」がついている本が半分ほどある。。)そんな我が家は、病気関係は他人事だとは想えず、気が重い、、(ということで、わたしは一か月前から自宅にてオンラインで粛々と懸命にイキイキと活動中。)

他の人におもいやりや寄り添いをもって生きていく

そういった流れの循環の最後にまで目を向けた上で、他の人におもいやりや寄り添いをもって生きていく。それが、いま、ひとりひとりにできること。そんな風にコロナによって視えてきた何かを受けとめています。でも、オンラインだとむずかしいことがあるんだよ、、それで苦しんだよ、、そうだよね。ご本人が誰よりも模索してもがいて必死に生きようとしているとおもいます。経験していないゆえの理解が及ばないこともある中で、全力で受けとめたいです。その上で、これまでとは異なるカタチを一緒に模索していきませんか。おひとりで抱えなくていいからね。助けてって嘆いていいからね。ひとりひとりが革命、社会変革をする一員として手を差し伸べあって、あなたが、あなたのまわりの人が、そのまわりの人が笑顔の華を咲かせるような絵を描いていきませんか。生きとし生けるものがしあわせでありますように。地球の片隅から、一燈照隅の想いで、心より愛を込めて。

お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。