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こころとからだ。洗心、洗体。整う、暮らし。

神社へお参りするときに洗心するのとおなじように、暮らしの中で、意識的にも無意識でも、洗心および洗体で、心身を清めたい、整えたい人は増えているかな。具体的な方法をしぇあ❤

こころとからだ。

毎瞬間が perfect に導かれているなあ、special だなあ、毎瞬間に今この瞬間に必要なサインを受け取っているなあ、と心の奥深くから感じ、全身でcelebration と至福を味わう。存在そのものへの感謝を噛みしめ続ける、そのような瞬間の紡ぎを贈っている日々。

洗心。

無意識な状態から意識が身体に戻るのを感じる朝。寝転んだそのままで、頭から足先までの全身を観察する、感じる。深呼吸しながら、全身のひとつひとつの素粒子の声に耳を澄ませる。余すところなく、丁寧に繊細に。

「あなたを観ているよ、ここにいるよ。大丈夫、安心してね。」と添えるかのように、ひとつとして置いてけぼりにすることなく、全意識を身体にだけ向けて観察する。慈悲喜捨(四無量心)を体現をもってお伝えしながら。

次第に、身体中があたたかくなっていくのを感じる。まるで、ひとつひとつが「観てくれてありがとう」と伝えてくれているかのように受け取っている。

深呼吸。

次に。窓を開け、新鮮な空気を味わう。瞳を閉じて大きく深呼吸。

太陽にありがとう、雲にありがとう、大空にありがとう。目に視えるすべての存在にありがとう、と合掌。

その後は、心身を浄化する行いを通して、整える。摂取よりも、排泄を重んじている。足すよりも、引くが大切だと体感。身体の中ある汚れを浄化しないまま、新たに摂取することを意識的にしない。一、二度の排泄を終え、身体が軽くなったのを確認し、空腹のサインを受け取った後に、固形物を口に含む。起床後、四、五時間が経過していることが多いね。

洗体。

口うがい。鼻うがい。洗顔。歯磨き。口に疲労感が出てくるまで、ぶくぶくと。鼻がすーっと細やかに吸い込むのを感じるまで、丁寧に。見落としはないかな?って確認しながら、顔の隅々までをマッサージ。フッ素加工のないねんどの歯磨き粉で細やかに、ひたすらに。

心身により意識を向けられるように、全身をきめ細かくマッサージ。頭、顔、目、耳、頬、首、肩、腕、肘、手先、胸、腹、腰、尻、太腿、膝、足先。触れていない面がひとつもないかのように、触れてあげる。ひとつひとつの部位、役割を労い、慈しみ、尊さや敬意、感謝を表し、宿借りさせていただいている状態に、至福を感じ、微笑みながら。

身体を動かす。

次に、深呼吸しながら身体を動かす。ゆったりと。日によって、疲労感や心身が感じている状態は異なるため、心身の声に寄り添って、一心同体を味わう。

ひとりのときは、基本的に音のないセカイにいる。小さな物音も出さないほど、繊細に振る舞う。静寂の中で、自分の心身にだけ意識を向け、味わい尽くす。誰よりも、私は自分自身とつながっていたいから。

いただく、食。

何を身体がいただいているか。Khichdi というインド料理で、四〜七類の豆とすこしのお野菜、スパイスを煮込んだものを、一年中いただいている。断食前後や養生食として Ayurveda ではいただくことが多いよう。(インド人でも毎日食べる人はほとんどいないとおもうが、笑)便秘や肥満に悩む人にはおすすめ💓 五、六回/日の排泄を通して、身体中の滞りから解き放たれるかも。病気は、心身の滞りが原因で生じるため、痛みからも解き放れるかも。続ければ続けるほどに、次第に、身体の滞りや痛みが薄れていき、感覚をより繊細に感じられるようになり、真のよろこびを感じられる状態に近づくとおもう。(体験談とはいえ、カルマ次第でもあるので一概には言えないけどね。)

時間を気にしない暮らし。

そういえば、時間を気にせずに生きている。時計を見ることがほとんどない。空を仰げば、陽光の強さが、風や鳥のさえずりが必要なサインを教えてくれる。

目の前にあるひとつのことだけに集中する。

何をしているかと問われると、何をしているのだろうね。自分で考えてあれこれすることはあまりないのかもしれない。必要なすべては、然るべくときに然るべく起こる。私は受け取れるスペースを心身につくって、受け取り続け、慈悲喜捨をもって、真摯に丁寧に繊細に誠実に集中して、向き合い続けるだけな気がしている。大切にしているのは、目の前にあるひとつのことだけに集中すること。そして、そのときに受け取れる分だけを、受け取ること。

相手のためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTに。

自分の外側へ意識を向けるのは、十分に自分を観た後から。自分のことを丁寧に慈しむことなく、他者を丁寧に慈しむことはむずかしい。目の前の存在に集中することが、相手のためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTとなる。

たとえば。暮らし“衣食住”の中心である、お台所を整えるとき。自分への意識が一通り落ち着いたら、洗濯を含め、ここからはじめる。「いつもありがとう、そこにいてくれてありがとう」を添えながら、丁寧に。繊細に感じにくいだけであって、無機物も波動をもっている。彼らが愛の波動を受け取れば、私たちは自然とその波動を受け取る。相手のためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTとなる。

たとえば。相手が誰であっても返信するとき。「あなたのそばにいますよ、ここにいますよ、あなたが大切ですよ、いつでも声や笑顔をお届けしますよ、生きていてくれて本当にありがとう。彼女のご両親ありがとう。」安心感や親しみ、配慮、あたたかさ、信頼、愛をお贈りする。さすれば、相手から自然といただき、心のつながりを感じる。相手のためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTとなる。

たとえば。コンポスト内の堆肥を眺めたり、混ぜているとき。愛おしくてたまらない。お野菜の切れ端たちを見つめては、「かわいいねえ、すーぱーかわいいねえ、元気かな、どうかな。天才やねえ。我が家に来てくれてありがとう💚」とお伝えしている。その波動で堆肥化していく彼らが、庭にいる土と合わさったとき、きっと、限りないエネルギーを注いでくれるであろう。そのエネルギーを家の中でいるだけで感じられるだろう。相手のためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTとなる。

たとえば。土を耕したり、苗を植えているとき。だんごむしも蝉の幼虫も蟻も、みんな愛おしくてたまらない。葉っぱや鳥、野良ちゃん猫にも、ずっと話しかけている、笑。「かわいいねえ、すーぱーかわいいねえ。いかがお過ごしかなあ。」「新しいおともだちが来てくれましたよ🧡 仲良くしてねえ。」と。彼らが愛の波動を受け取れば、私たちは自然とその波動を受け取る。相手のためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTとなる。

たとえば。うぐいす豆や文旦を剥いたり、野菜を切っているとき。これほどに豊かな時間があるのかな、とおもうほど、至福を感じる。なにかを憂いたり、不安に感じることなく、内なる調和と共に、目の前にある存在に対して、意識を集中できる状態が、どれほどしあわせなことだろうかと、心からよろこびを味わう。

すべてはだれかのお力添えをいただきながら、暮らしている。

「美しいみんな、welcome to my home💕 本当にありがとう。あなたたちのおかげで、私たちはエネルギーや栄養素をいただき、さらに役割に向かうことができます。笑顔が増えますよ💜」「野菜を育ててくれた、太陽の光、雨や水、土や微生物、虫さんたち、愛情と手間ひまをかけて、慈しみながら育ててくださった農家さん、この手に届くまでに流通に携わってくださったすべての人の存在で、私たちは生きていられています。本当にありがとう💛」と。

食べられる環境にある、という special が、いかに当たり前ではないのかに自然と意識が向く。当たり前というのは存在しない。いつもだれかの存在あって、私たちは救われているのだ。

たとえば。週に一、二度おさんぽにおでかけするとき。合計で 20-30km ほど歩くのだが、一歩一歩を味わっている。道路を作ってくれた人、道路沿いに木々やお花を植えてくれた人、学校や家を建てた人、生活を営み、手を差し伸べ合っている人、電車を動かしている人、線路を作った人、駅で乗客を見守る人、車や部品を設計した人、安心安全を大切にしてくれている人、木々が発するエネルギーなど、すべてに感謝があふれる。鞄も服、布団もそう。お台所やお風呂もそう。水や電気もそう。すべてはだれかのお力添えをいただきながら、暮らしている。

ひとつひとつのことに感謝を深く感じるほど、私たちがいかに至福であるかを、感じることにつながるだろう。生きているだけでよろこびなんだね、と心から噛みしめる。

愛の循環。

人間も他の生物も無機物もそれぞれが得意なことで支え合う。認め合う、受けとめ合う、赦し合う、労い合う、慈しみ合う。ひとりひとりが愛の波動を受け取れば、自然とその波動を受け取る。だれかのためにすることが、自然に、自分自身が整うGIFTとなる。

ああ、なんて美しき愛のセカイで生きているんだろう。ね。ああ、感謝と至福で満ちるね。他にはなにもいらないね。ああ、みんながまんまるな状態でいられますように、平静さと慈悲に包み込まれますように、真のしあわせを感じられますように、清らかとなり、苦から解き放たれますように、と心から祈って。
💙🙏

「愛華の"暮らし"を知りたい」と問うてくれた、大切な友に向けてのお手紙💚

お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。