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「死にたい」が鼓動する

「生きていること」
それを私たちが自覚する方法のひとつとして、心臓の音(鼓動)を聴くことが挙げられる。
私はその音と同じくらいのペースとリズムで「死にたい」を心に刻むことがある。
それを今回(またはこれから)は、【「死にたい」が鼓動する】と呼ぶことにしようと思う。

「死にそう」にリズムは存在しない。
例えば地震とか、通り魔に襲われるとか。そりゃ死にたいとか生きたいとか関係なくうわっ!てなって、心臓で言うとドキッとなる。無事だと思っても、暫く鼓動を一定には保てないだろう。
きっと我々は、急に死を自覚することでやっと「生きていること」を理解できるのだと思う。

「死にたい」の鼓動に音はあると私は考える。それは心の叫びであり、自分にのみ聞こえるもので、他人からは聞こえない鼓動である。
つまり、「生きていること」は他人から見えないとも言える。「死にたい」や「死にそう」の自覚は、他人には見えないから。

だからといって自分あるいは他人の死や生を、わざわざ知らせる必要も、探る必要もない。
心臓が動く、息をしている。
それも客観的に言う「生」であり、尊いと言える。

だから、私は、
他人の「死にたい」を自分に打ち明けてくれたとき。私は、急に「生きていること」を自覚することがある
「生きていること」を自覚するとき、それは死を間近に感じた時であると序盤で書いたように。
私は胸がただ苦しいだけでなく、心臓がうるさい。多分冷静ではない。普通に話してるつもりであるが、声は震えて、手は覚束ぬ程である。
希死念慮を抱える私が、死に怯える。
情けない鼓動であり、動揺である。

「生きていること」を自覚する音が心臓。そして私やそれ以外の希死念慮を抱える人の心の中で「死にたい」が鼓動する。何故か「生きて欲しい」という思いからまた揺れ動く心があり、特に、稀に、心臓は、「生きていたい」と激しく動くことがある。

生を熟考し、死について深く考える上で、私は鼓動に着目した。
「死にたい」の鼓動に変化があるんだろうか。「生きたい」を冷静に、平穏に感じられる日が来ればいいなとは思っている。
出来れば、死の自覚や鼓動よりも簡単な方法で生を自覚して、生きてることを理解出来たらいい。私にはまだ難しいようである。


…………

「死にたい」と吐くことを美化するつもりは無いが、私はこのような考えを持つ人間なので、これからも「死にたい」とき「死にたい」と言うよ。という報告をついでにしておきたい。
私は「生きていること」を自覚したいから死について考えていたいのだと思う。
他の考え方も、みんなのそれぞれの死にたいも、否定しない。
ただ、私の考えを一度明確にしておきたかった。

何故私が独り言じゃなくてこうやって、言葉で表現して、必死に伝えようとしているのか。
単純に承認欲求と言ってしまえばそうであると思うので、それは否定しない。
生きて欲しいと言われたいからだとも思う。否定しない。多分、そうでもある。

とにかく大部分、私の「死にたい」は多分必死に「生きている」ということを伝えたいに違いない…。「死にたい」が鼓動する。イコール、私は「生きている」と。
思ってくれたら嬉しい。

…………

長いのにここまで読んでくれた人はどうもありがとう。

私を知る人、私を知らない人も。
一緒に生きてくれてありがとう。

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