私の夢の進化

1度目の選択


私は6歳の時にはじめて将来の夢を口にした覚えがある。
「将来は看護師さんになる!」と。
この時の私には、看護の仕事は
人が痛みや苦痛や病気で心折れそうな時でもそばに居て心の支えになれる仕事だと思っていた。
社会的にも価値のある仕事にみえていたのだと思う。
そんな風に将来の夢を胸に秘めていた私は、自分の人生のこれからの広がりにワクワクした。
純粋な情熱に溢れてイキイキしていた!

2度目の選択

将来の夢について中学生の頃には、現実的な人生の棚卸しをした。
一瞬医師の仕事が頭をよぎったが、当時は勉強が嫌いで、明らかに医師の仕事を選べる程勉強が出来る自信もなく、悩む事なく諦めた。

その後一時期は看護師美容師体育の先生とが横並びになり
さて、どの道を選ぼうかなぁ?と悩んで
再び看護師の道を選んだ。

それ以降は、めでたく希望の高校と短大に入ってしまい、そこでは成績は恐らく底の方で、苦しみながらだったけれども、めでたく新卒で医科大学附属病院に就職し看護の仕事に就いた。

3度目の選択

実は、看護学生の一年生の頃に大きな挫折感を味わった出来事があって、私の夢は「助産師」にとって変わったのだが、当時の日本では看護師の教育課程の後に助産師の課程があったので、大きな流れとしては、自分が思い描いた通りに進んできた事になる。

23歳から看護師と助産師の仕事がはじまり、私は6歳から持ち続けてきた夢を実現した。
が、ハッピーだったかというと、、、、。
臨床で働くという私の日常には、亡くなっていく子供たちを見送ることも多く、緊張感の連続で当時の私はとてもハッピーのような気持ちではなかった。
臨床で働くという事に喜びもやりがいも感じていたけれども、年々いろんな問題が見えて来て、もがき続けて、私の心の中にはついに次の夢を描く空間がほとんどないくらい、心も身体も疲れ果ててしまって、3種類の鎮痛剤を使い分けて飲んでも、いろんな痛みは増して行き、次第に笑顔も作れなくなっていた。

4度目の選択

亡くなっていく子供たちをみていたら、私は
「子どもたちは何のために生まれてきたんだろう?
私は何のために生きているのだろう?」と、自問するようになっていた。

6歳の時に「看護師さんになりたい!」と夢に胸を膨らませていた時のイキイキさが、この頃は細〜い糸程も感じていただろうか?

自分や社会に溢れているたくさんの問題や課題を前にどうする事も出来そうにない気がして、押し潰されそうに感じていた。

出来る事は確実に増えていたけど、やってもやっても問題が溢れて来る感じだった。
26歳の私は無力感に苛まれてもがいていた時に、私はもっと勉強しなければならない!と考えて、元々看護師になりたいと胸を膨らませていた時の気持ちを、思い出そうとした。
「私が看護師になりたい!って、胸を膨らませていたあの時、看護師の仕事にどんな魅力を感じていたのだったのだろう?」って、自問する日々だった。

そしてある時に
『私は元々、看護師は人の心の支えになれる仕事だと思っていたんだ!』
という事を思い出した。

それから「子どもたちは何のために生まれてきたんだろう?私は何のために生きているのだろう?」の明確な答えはまだなかったけれどもカウンセリングや心理学などの次の学び場を探しはじめていて、この時の私は再び
「もし私が人の心の事をもっと学んだら、私の人生にも社会の問題の解決にも役立てるかもしれない!」という気持ちになってイキイキさを取り戻していったように感じていた。

それでも、無力感が解消された訳ではなく、頑張って頑張って生きている。。。そんな気持ちだった。

5度目の選択

私は1974年に長崎県長崎市に生まれ育ち、戦争を経験した祖父母と同居して育った事もあり、命のことや世界の平和についての思い入れも、無意識に深く持って育ったように思う。

そして、26歳の頃の私は自分の人生さえ手に負えない感じがしていて、世界の平和に想いを馳せるどころではなかったけれども、改めて人生の光を感じ始めた頃、もうひとつ衝撃的な事があった。
内側にフワッと現れた事があったのだ。それは
「地球社会全体の問題は、一人ひとりが自分の人生において本当に大切だと感じる人生を体現して生きている世界では見事に解決していて、そこはみんなが幸せに生きている世界だ!」
と、小さい頃から心の片隅でずっとずっと信じ続けてきていたことを思い出したのだ。

それは、この時にそう思った!
のではなく
「思い出した!」
という感覚だった。

この頃、私がずっと昔から心の奥で思い続けてきた事を、思い出せた事はとても鮮烈な経験だった。
その時は多分興奮気味だったと思う。
助産師の仕事をしていた頃の職場の先輩に、素直にその思いを話して
「そう思いませんか?」って、言った時にその看護師さんは面食らい困った表情で
「私は、そんな風に私は思えないけど、あなたはその想いを大事にしてね」と、若干哀れみのような慰めのような言葉をかけてもらって、がっかりした記憶がある。

今思うと、私は無意識に、この頃から想いが共通の仲間を探しはじていたのだろうなぁ、と思う。
そして、26歳の終わり頃、これまで探し求めていた仲間だと感じる人たちとの出会いと探し求めていた学び場との出会いが同時に訪れた。
これが、ハーモニープラネットプロジェクトとの出会いでもある。

この時に、ハーモニープラネットというビジョンの名付け親であるミシェルニューポートと、初めて話したのだが
彼女に会った私は、初対面にも関わらず
「地球社会全体の問題は、一人ひとりが自分の人生において本当に大切だと感じる人生を体現して生きている世界では見事に解決していて、そこはみんなが幸せに生きている世界だと思う!」
と、熱く語った。

そう語った私の周りには、ミシェルとその他3人の初対面の方がいたけど、みんなが何の抵抗もなく私の想いに同意して、みんなが笑って頷いていた。

私はその時、初めて私の人生の理解者に出逢えたような気持ちだった。
この時に私は、私の一生を通しての夢を意識的に選択したのだと思っている。

その後、2001年の春から2002年春にかけて、合わせて6ヶ月間オーストラリアに滞在して学んだ。
その学びが、人生の進化の学びと実践の始まりだったのだが、その時のことはまた後にまとめる事にする。

6度目の選択

2020年11月現在、私は46歳。

20年前の出会いを機に、自分の人生の進化が何かしらの運任せと言う感じではなく、意識的にも創造する人生を楽しんできたと思っている。

もっと言うと、20年前の出会い以前のすべての選択も
自身の選択だったことを、この肉体でだんだん思い出しながら
これまで生きてきた。

『私の、これからの約15年は、
私の人生の夢と関係する人たちと共に
社会創造を楽しむ人生を生きるだろう』
と、今確かに実感している。

私の人生は、私個人としての人生創造の楽しみから
それらを含む社会創造の楽しみへと広がり深まり続けているところだ。

まとめ

今回、私の夢の進化について書いてみたが
進化と言っても、とても大きなことを成し遂げたとか
人より秀でているとかそういうことではないのは
お解りいただけたと思う。

ここに書いたことは、順調なように映るところはあるかもしれないが
少なからず、みんなのそれぞれの人生にもある営みだろう。
私の人生をとりたてて公表することでもない人生だとは思うが
わざわざ公表してまで、今の私が言いたいのは

自分にある人生の営みの一瞬一瞬は
(私もそうだが、、、、)
今の自分が思っているより、遥かにとっても大事だ!

と私は解釈しているということだ。
それは、いつの段階でもそうだと私は思っている。

だって、自分が意識出来る範囲は、いつでも
自分として存在している尊さの範囲よりも遥かに小さいと思うから。

人間として生まれ、生きているみんなに言う。
「あなたは、あなたが意識的に思っているよりも、はるかに尊い存在だ!」

私は、もしも可能なら、今すぐにでも
みんなが、常に愛情いっぱいに溢れた実感を
感じられるようにしたい!

その魔法のような作業は、今も目に見える層と見えない層で進んでいるし
私以外のたくさんの人たちも、同じ気持ちで居る人がいる。
みんなの魔法は、今も進行中で、やり方はひとつに決まってはいない。

この魔法は、いつどんな流れで叶うかも解らないが
私はこれからも、出来るだけたくさん、いろんな時にいろんなところで
様々なやり方で仕掛けてみたいと思っている。

今の私の夢は
上に書いた6度の夢の選択を含んだ全部だ!

私の人生は後30年くらいか、長くてもあと50年程度だろう。

誰の命も、誰の人生も尊く、そして愛おしい。
それは、私が思っているより遥かに尊い。

だから、人生の進化など、そのすべてを認識できる訳もないが
少なくとも自分の夢の進化を語れるくらいにはなった。
これまでに、いろ〜んな命の営みを感じて、その営みを見つめてきたし
今もなお、私の中での、人生の進化についての研究は続いている。


私は、
こんな風に、人生の進化を意識的にも理解しながら生きる
この人生のスタンスが、かなり気に入っている。


つづく

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