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伊豆の小さな港町に集う若者たち

 静岡県東部、東伊豆町に稲取という小さな港町がある。わたしはその町、そこに住む人、集う人たちが好きだ。特に今回は"人"の魅力について週末のんびりと稲取で過ごしながら考えてみたことをつらつらと述べる。
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"稲取に集うわたしの素敵な友達について"
(文章内で偉そうに"彼ら"と呼ぶのをお許しください)

なぜ好きなのか。

・暮らし

 わたしは彼らの暮らし方が好きだ。彼らの暮らし方は"足るを知る"暮らしである。

 多少傷や汚れがあろうともまだまだ使える物を使う。あったら良いが、なくても何とかなる、今ある物で代用することができると考える。そして、物を買う時には本当に必要かどうかを考え、物によって自分の満足できるレベルに合わせたものを購入する。これは多少高くとも良い物を買おう、これにはお金を使わない、というように。

 そこに、周囲からどう思われるかという考えはいらない。使うのは自分だからだ。自分にとって不要になれば(あるいは、より必要としてくれる人が現れれば)、必要としてくれる人に譲る。送り手は貰ってもらえてうれしい、貰い手はもらえてうれしい。そこに優劣や損得といった考えは一切なく、互いに思いやり、与え合う関係である。物は一つでもそこに産まれる喜びは二倍以上となる。

 少ない物で豊かに生きるミニマルな暮らしに憧れるわたしにとって、彼らは理想的な暮らしをしている。足るを知る者は心が豊かであり、暖かい。そんな彼らが好きだ。

・考え

 わたしは彼らの考え方がすきだ。彼らは"自分軸"で生きている。

 日本人の国民性として、他者に合わせる、同調するといった他人軸での生き方をする人が多いと言われている。何が正しいのか、世間体や"〜すべき"という誰が決めたかも分からない普通に合わせて生きているのだ。それが美学とされるのもまた、他人軸で生きている人の考えであろう。

 しかし彼らは違う。彼らの中に"普通の人"はいない。そもそも、"普通"の定義が多様であることを認識している。そして、誰かの決めた普通に合わせるわけではなく、自らの強い意思で選択し、生きている。それは決して他者の考えを無視して我儘に生きているという意味ではない。自分軸と自分軸の間には、他への"思いやり"や"きく耳"、"好奇心"といった横の繋がりがあり、軸の向く方向も様々で、まるで網目のように結ばれ、絡み合っているのだ。その網ではきっと大物を捕らえることができるのだろう。(ぼーっとしながらそんな妄想をしていた。)

 会うたび、この人たちならどんな困難であっても乗り越え、可能にしてしまいそうというような不思議な力を感じる。そんな強い自分軸を持ち、エネルギッシュな彼らが好きだ。

・人間味

 ここまでの文を読むと、彼らが自分とはかけ離れた存在であるように思えるかもしれない。しかし、実際には人間味(もちろん良い意味で)に溢れている。そしてわたしはそのギャップにさらに惹かれ、愛おしいと思っている。

 程よく嫌なことは後回しにしながら、今を楽しむ。疲れたらお風呂に入らず寝る、気が向くまで放っておく、現実から目を背ける、"疲れた"と言葉にする。そんな人間らしい一面を見せる彼らが好きだ。
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  伊豆の小さな港町に住むわたしの素敵な友達について、なぜ好きなのかをぼーっと考えながら滞在した週末。楽しかったなぁ。いつも刺激をくれてありがとう。

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