「NHKにようこそ!」と私。
二回目の高校一年生の初夏。私はアルバイトでコツコツと貯めたお金で七万円近くするノートパソコンを買った。実家にはパソコンがなかったため、インターネット回線も当然なく回線も契約することになった。当時、十七歳の私にとっては思い切った高価な買い物であった。きっと、パソコンを持ってさえいれば人生の悩みのほとんどは解決できるのだと本気で考えていたのである。子どもの頃に見た映画やテレビ画面の中で、主人公たちがパソコンの前で何やらカチカチとやってるのを見て安易にそう思ったのだ。パソコンをカチカチとすれば多分お金持ちになれて、たくさん人がいて恐ろしい会社やら学校には、もう行かなくて済むのかも知れないと思った。私が二回目の高校一年生となったのは、私にとって学校の教室は地獄のような場所であったからだ。小学校の途中から学校は恐い場所になり、中学校の途中から、私はあまり学校に行かなくなった。制服を着て学校に向かう道の途中で足がすくんで、日が暮れるまで神社の建物の裏に隠れて過ごしていた。高校生になってパソコンを手に入れた私は週二日ほど必要最低限だけの授業を受けて、それ以外は自室に引きこもって誰とも話さずにパソコンをカチカチするようになった。現代風の言葉で”引きこもり”に近い生活を送っていた。インターネットの掲示板で知り合った同い年の子がある本を私に貸してくれた。その表紙には「NHKにようこそ!」と書かれていて、教育テレビの本だと思ったが、この本でいう”NHK”とは”日本ひきこもり協会”の略称なのである。この本の主人公の佐藤達弘は現代の社会問題ともなっている引きこもりである。佐藤は引きこもり生活から脱却できない苦悩の末に、自分が引きこもりから脱却できないのは、”NHK”つまり、”日本ひきこもり協会”という存在が妨害をしているからであると仮説をたてた。NHKは子ども向けにアニメなどを放送することにより、アニメ好きのオタクを量産して、引きこもりを増やしているという説で、当然これは主人公の佐藤の妄想である。佐藤は大学に進学したが、ある日の登校中に人の視線が恐くなり、それ以来自宅に引きこもるようになって、大学も中退してしまった。そんな佐藤が現状に苦しみつつも、おおいに脱線したりしながらも、引きこもり脱却の葛藤をしているというストーリーである。それまで、私はあまり多くの本を読んだことがなかった。当時は本を手に取っても最後まで読み切ることは珍しかったが、この本はテーマが引きこもりというもので、自分自身と似ていた環境であったためか、最後まで読むことができた。読書の楽しさを教えてくれた本の一つである。この本の作者の滝本竜彦さんは本の主人公と同じく、大学を中退して引きこもり生活を送っていた人物である。巻末のあとがきによれば、この本には作者自身の実際に経験したことが大変に生かされているとある。そのこともあり、創作作品にドキュメンタリーの要素も盛り込まれて、よりリアリティーが増す作品となっているのかも知れない。この作品の中で印象的なのは、主人公の佐藤達弘はひきこもり生活の中でこの先の未来への不安に襲われながらも、それをどうにか解決したいという強い願望と、持ち前のポジティブな思考を持っていることである。学校を辞めて職にも就かず、生活資金は底をつきかけて毎日ギリギリの生活環境にいながらも、どうしてそんなにポジティブな思考が湧いてくるのだろうかと私は衝撃を受けた。主人公の佐藤はよく考えることをした。問題に直面するたびに、それをどうやって解決したらよいかを深く考えた。多くの問題は引きこもりの佐藤にとっては難しい問題で現実的に解決できないものが多かったが、その時でも佐藤は諦めずにポジティブに考えていた。それは時に非現実的な思考でもあったが、現状に悲観ばかりせずに、世界の常識を捻じ曲げてでも、無理やりにポジティブに思考することで、心の不安を緩和するのである。問題は違っても同じように何かに不安や悩みを持って生きている読者は、主人公の佐藤達弘の思考を読んでいると、そういう考え方もあるのかと感心する。問題に心を痛めて、どうしたらよかったのかと反省することは大切であるが、それもせずに、ただ問題に悲観ばかりしていても解決はできない。佐藤の生き方は各々の人生を送る人々にも参考にできる点があると思う。この本の重要な登場人物に中原岬という主人公の四歳年下の女の子が出てくる。彼女が宗教の勧誘の手つだいで、佐藤の引きこもるアパートを訪ねたことで二人は出会う。中原岬は複雑な家庭環境が原因で悩まされていた。佐藤が引きこもりだと知った中原岬は、佐藤を引きこもりから救おうとするプロジェクトを提案する。この二人の掛け合いで私が印象的だったシーンは、佐藤は中原岬に何か面白い話をしてあげようと考えるところだ。数年間に渡る引きこもり生活で人との話し方すらも忘れかけていた佐藤だが、人を笑顔にしたい、喜ばせたいという思い遣りの気持ちを決して忘れていない点に、佐藤の人の良さがにじみ出ていると私は思った。
また、この本を私に貸してくれた掲示板で知り合った子は、当時私と同い年の十七歳で、お笑い芸人を志していた。通っていた高校を辞め、北海道から上京して一人暮らしをしている子だった。人が怖いと引きこもっていた自分とは違って、人を笑顔にしようとしていたその子と重なるようにも思えた。この本の結末では、結局のところ佐藤達弘は引きこもりから脱却できたとは思っていないのであるが、実際はできているということに気付かない。振り返ってみると、いつのまにか当たり前にできるようになっていることに気付かないのである。
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