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新海誠ひとりきりの卒業式『すずめの戸締まり』

 数はさほど多くないだろうが、『君の名は。』(2016)以降の作品に違和感を覚えている新海誠ファンもいることだろう。
 お気に入りの作家がブレイクを果たすと、置いていかれたような気がして、古くからのファンはさみしくなってしまう。これはアニメーションや映画に限らず、どんな分野でも起こることだし、こうした(ありふれた)喪失感こそが新海誠的、と言えるかもしれない。
 それは、他人から見れば小さなさみしさに映るかもしれないが、本人はそれなりに傷ついている。いや、これは、かなりの喪失感の場合だってある。

 なにしろ、新海誠は【傷の匂い】を描いてきたアニメーション監督なのだから。

 『君の名は。』で何が起きたか。アニメーションとしてのフォーミュラが強化されたことが第一に挙げられる。アニメーションとして、というより、作品として、と言っていいかもしれない。
 フォーミュラ、すなわち方式や定型がクリアだと、不特定多数の観客が安心して乗り込むことができる。アミューズメントパークと同じである。
 明快なルール(らしきもの)が軌道として設定されていることが共有できると、映画にせよ、ゲームにせよ、多くの人々が集うことになる。これがいわゆる、わかりやすさ、という魔法だ。
 そこに、神木隆之介と上白石萌音(ふたりとも名前がカミである)の神がかったボイスアクトが加わり、『君の名は。』は老若男女のオーディエンスを惹きつけた。
 新海誠作品の中で最も多くの人に観られた。ということはつまり、『君の名は。』で初めて新海誠を知った層がかなりいるということ。これは紛れもない事実であり、キャリアの長い作家であれば、必ずそのような局面は訪れる。
 『言の葉の庭』(2013)までの新海は、フォーミュラを強化しない作家だった。
 たとえば、興行的には唯一の失敗作と言われる『星を追う子ども』(2011)は、フォーミュラ未設定のまま、大きな物語をやろうとした野心作である。失敗を失敗として受けとめる素直な作家である新海が、だから『君の名は。』でフォーミュラを強化したのかどうかはわからないが、彼が『星を追う子ども』で大きく傷ついたことは間違いない。

 なにしろ、新海誠は【傷の匂い】を描いてきたアニメーション監督なのだから。

 『秒速5センチメートル』(2007)に顕著だが、新海は心象と言葉に耽溺する傾向のある作家であり、そうしたフォーミュラに頼らない絵筆による色彩は、たとえば村上春樹という国民作家が持っている明瞭さ(キャラと言い換えてもよいかもしれない)に通ずるものがあった。新海誠という色彩に魅了されていた耽溺型の観客にとっては、『君の名は。』で導入されたフォーミュラがしっくりこなかった可能性はある。色彩と呼ぶには、あまりにクリアすぎるのだ。
 弾き語りのアコースティックギターで泣かせていたミュージシャンが、いきなりバンド編成のポップミュージックで大ヒットを飛ばす。よくある話だが、さみしさを感じるファンはいつの世にもいる。20世紀にも。21世紀にも。
 続く『天気の子』(2019)では、フォーミュラをベースにさらにスケールも獲得した。ずいぶん、遠くへ行ってしまった。喪失感にさらに拍車がかかった人もいるのではないか。繰り返すが、こうした心性こそ新海誠的、ではある。
 ドームツアーをしているバンドに対して、ライブハウス時代が忘れられないと思う、拗らせたファンは存在する。これもまた人情である。



 さて、『すずめの戸締まり』だ。
 『君の名は。』『天気の子』に続く(なんとなくの)三部作の締めくくり。そう感じている向きも多いのではないか。内容的な関連はないにしても、フォーミュラ強化三部作だろう、と。
 結論から言おう。
 これは、新海誠が一度手にしたフォーミュラを手離した作品である。ある意味、『君の名は。』や『天気の子』のファンに全く媚びていない、とも言える。
 もちろん、「らしさ」はある。彼のアニメーションならではの仕掛けはイントロに用意されている。だが、それはあくまでも、入口にすぎない。
 大きな変化がある。
 まず、アニメーション的な躍動感やダイナミズムに頼らなくなったこと。
 そして、『天気の子』で最高潮に達した、具体的な土地に対するフェティシズム(それゆえファンの聖地巡りも活発化した)が薄れたこと。
 この二点は、『君の名は。』や『天気の子』を期待する近年のファンにとっては違和感かもしれない。

 震災をテーマにしたことは明言されているし、実際、震災も描写される。
 むしろ、フォーミュラをさらに強化して、万人を納得させる感動作に仕立て上げる方が自然だ。だが、新海誠は、それをしなかった。   
 フォーミュラも、スケールも、躍動感も、ダイナミズムも、手の内にあるというのに。それを手離しているのだ。震災ものであれば、土地に対するフェティシズムは非常に有効である。にもかかわらず、ほぼそれをやっていない。

 ここに、勇気を感じる。

 端的に言えば、これはロードムービーである。
 使命らしきものもあるし、奪還や回帰、解放の物語でもある。導入と幕切れが呼応してもいる。だが、フォーミュラは機動しない。これが素晴らしい。
 様々な見せ場があることはあるが、それらがカタルシスに直結することはなく、むしろただのトピックとして通過していく。
 そして、大仰な緊張感は漂わないし、演出されない。
 言ってみれば、すべてが【旅の通過点】であり、そこに殊更な差異や落差を設けていない。旅の行程で起きる、あらゆる出来事は等価なのだ。

 ここに、新海誠の冒険がある。

 旅のパートナーとなる存在が序盤で、脚の一つ欠けた椅子に変身してしまうことには様々な解釈が成り立つだろうが、一つハッキリ言えるのは、【抽象化】が必要だったということ。

 すべては、過ぎ去っていくのだということ。
 そして、過ぎ去っていくから、大切なのだということ。

 なにしろ、新海誠は【傷の匂い】を描いてきたアニメーション監督なのだから。

 旅で出逢った人。旅で出逢った土地。
 そのすべては素晴らしい。だが、いつか再会するにせよ、旅とは、すべてが別れの連続である。
 もう二度と、同じ人、同じ場所に出逢うことはできない。あらゆることは一期一会だ。
 この普遍を前にしたとき、すべては等価のものになる。
 そこでは、フォーミュラも、スケールも、躍動感も、ダイナミズムも、フェティシズムも、全部、いらない。

 旅は、ただ、続いていく。それだけなのだ。

 たとえば、どこかに辿り着いたとしても、それは終わりではない。また一つ、別れが増えただけのこと。

 無数の別れと共に、わたしたちは生きているのだということ。

 それが丹念に、愚直に描かれている。

 『すずめの戸締まり』は、新海誠の初期作を思い起こさせる。
 そう言えば『ほしのこえ』(2002)の冒頭には【戸締まり 忘れずに】の文字があった。
 そして『彼女と彼女の猫』(2000)のラストのモノローグ(新海誠自身の声がそこにはある)【僕も、それから、たぶん、彼女も、この世界のことを好きなんだと思う】ほど、『すずめの戸締まり』の本質にふさわしいフレーズもない。

 新海誠は、一度手にした大きなものを手離した。
 しかし、これは原点回帰ではない。
 かつての作品のような心象や言葉への耽溺も、もう感じない。
 もっともっと、手ぶらで、生きることに向かい合っている。
 喪失をおそれず、むしろ喪失の風情を慈しんでいる。
 ほんとうの意味で、彼は先に行ったのだ。
 別れの分だけ、人生は先に進んでいる。

 なにしろ、新海誠は【傷の匂い】を描いてきたアニメーション監督なのだから。

 『すずめの戸締まり』は、新海誠による、新海誠の【卒業式】と言えるかもしれない。

 Graduation! 










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