有村架純、真面目さの「業」
中学生は、わたしたちが思っているより大人だし、わたしたちが思っているより子供である。
このふたつの相反するテーゼを、たとえば「身体」と「精神」に切り分けて考えることは不毛だろう。
大人と子供が入り混じりながら同居している中学生にとって、身体とは精神のことであり、精神とは身体のことなのだから。
『中学聖日記』というきわめて示唆的なタイトルを持つ連続ドラマは、女性教師に恋する男子生徒が中学生でなければならなかったという真実を、密やかにしかし雄弁に告げでいる。
もし、これが高校生だったら?
たちまち物語は身体、いや、「肉体」に傾斜した趣の生臭さに堕すだろう。
では、小学生だったら?
生徒の精神年齢がいかに高くても、それは純朴な「心」だけを重視する愛らしいファンタジーとして処理されるだろう。
そうではないのだ。
『中学生聖日記』は、そうした安全圏内には留まらない。身体か精神かの二者択一に逃げず、「身体と精神の」緊急事態として、行く末を見届けようとする。
だから、このドラマは、ひとによっては嫌悪感さえ招くだろう。安心して観てはいられないからである。
たとえば、男子中学生が独白の中で女性教師のことを「聖ちゃん」と呼ぶこと。こうした、ある種の転倒は、幼さを幼さとして、欲望を欲望としてカテゴライズしたい向きには忌み嫌うべき対象となるだろう。なぜなら、そこでは男子中学生の身体と精神が混濁したまま、相手を欲しているからである。
あなたが欲しい。こうした欲求は小学生であれ高校生であれ幼児であれ大人であれ、等しく抱えているものだが、中学生という存在ほど、観客が「割り切れない」被写体もないからである。
ミドルティーンの男子中学生と、婚約者のいる若き女性教師の恋だから、禁断なのではない。わたしたちは、なにを許し、なにを許さないのか。そのあるようでない「境界線」に深く斬り込んでくるから、このドラマは目が離せないものになっている。
「気持ち悪い」と男子中学生は、女子同級生のことも、己のことも総括しようとするが、本作は恋することのよろこびよりも、吐き気がするほど「どうにもないない」状態こそを見つめようする。だから、もし視聴者がこれを「気持ち悪い」と呟いたとしたら、それは物語がたしかに「届いた」ということなのだ。
身体と精神が分かち難く結びついた状態ほど、気色悪いものはないからである。
これは現代において、果敢な挑戦と言うべきであろう。
だが、演出は決してシリアス一辺倒なものではない。コミカルとまではいかないが、かなりカジュアルである。男子中学生と女性教師、それぞれの心象風景を捉えたモノクロ映画は古き良き漫画のようだし、学校内外に存在する「抑圧」をめぐる描写も一定のデフォルメが施されている。これは、この許されぬ恋を、美化したり、悲劇に貶めたりしない、毅然とした態度であると考えられる。
シリアスに突っ走ると、何かが見えなくなる。カジュアルな演出は、あくまでも冷静に事態の推移を見届けようとする防波堤だ。
カジュアルさが際立つのは、女性教師の婚約者と、その女性上司の関係をめぐる描写であろう。このふたりには「駆け引き」を愉しむ余裕がある。言ってみれば「同族」だ。年齢やキャリアの違いはあれど、ある程度「割り切り」のできる大人だ。
彼と彼女の存在は、決してそうではない男子中学生と女性教師の、言ってみれば「分別のない」ありようを浮き彫りにする。周到な構造設計であり演出アプローチである。
さて、ここで最も重要なのは、ヒロインを演じているのが有村架純であるという事実である。
この女優に抱くイメージはひとそれぞれかもしれないが、ある種の芯の強さ、揺らがぬ軸のようなものは、多かれ少なかれ誰もが体感しているのではないか。
あるひとにとって、それは清純さになるだろうし、別なひとにとっては、色気にも映るかもしれない。
もちろん、教師は揺れている。だが、中学生に「誰かを好きになる」覚悟があるように、彼女にも「誰かに惚れられる」覚悟があらかじめ備わっている。
有村の芯や軸は、そこを逃さない。車内や教師の自宅で、中学生が教師にキスしそうになる瞬間がある。そのときの「そらし方」には、身体的な反射があり、それは精神が追いつくより先に、覚悟が「勝手に」動いている。
それは思わせぶりな態度ではない。防衛から限りなく遠くにある、理屈を超えた「無防備」な振る舞いだ。中学生が混乱するのも無理はない。平常心に宿る魔性を、有村架純はかたちにしている。
教師になるのが夢だったと、ヒロインは何度も語る。おそらく生真面目に生きてきたに違いない。婚約者との恋愛もおそらく真面目だっただろう。婚約者の親に対する宣言も真面目そのものだ。
真面目に生きる。真面目に生きようとする。それは大抵「善」とされる。だが、はたして、それは「善」とだけ言い切れるだろうか?
有村架純という女優の凄みは、こうした問いへと、わたしたちを招き寄せる。
実は、真面目さという「業」も、この世にあるのではないか。真面目さによって、ひとは踏みはずすこともあるのではないか。
生徒の想いに真面目に応えること。だれかの好意に真面目に向き合うこと。手を抜かないこと。逃げないこと。諦めないこと。誠実であること。
これら、本来「善」でしかないことが、反転しつつある過程を、有村架純はあくまでも抑制を効かせたグラデーションの中から描きだす。油彩のインパクトではなく、水彩のしぶとさ、丹念さによって、女性教師の「めざめ」が彩られて
いく。
『中学聖日記』がもし危険なドラマだとするなら、真面目さの「業」が照射されているからに他ならない。
きっと、教師と中学生は息ぎれすることなく最後まで駆けぬけるだろう。ふたりは真面目だから。真面目さの行方が知りたい。真面目さの行き着く果てが見たい。
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