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丁寧に生きても、上手くいかないことはある。「夕暮れに、手をつなぐ」の真実。

 丁寧に生きても、上手くいかないことはある。

 「夕暮れに、手をつなぐ」は、この真実を、深刻ぶらずに、人肌のぬくもりで紡いでいるドラマである。とりあえず第三話までは、そのように描かれている。今後、変わっていく可能性はあるが、生きるということの残酷さに、決して残酷には映らない筆致で迫っていく肌ざわりは、おそらくキープされるだろう。

 学生時代から付き合っていた婚約者にフラれた九州育ちの女性と、東京で作曲家として活動しているもののなかなか芽の出ない男性。くすぶる23歳ふたりの出逢いと再会、ひとつ屋根の下で暮らしていく様を脚本家、北川悦吏子は持ち前のドリーミーなタッチで、あるときは唐突に、あるときは時を慈しむように見せていく。

 あらゆる意味で運動神経に優れた女の子と、傷つくことをおそれて一歩踏み出すことを回避している男の子。速度とスローの対比を、ぶつけ合うのではなく、溶け合わせるように画面に定着させていく。天才、広瀬すずと、King & Princeの永瀬廉の邂逅は、想像以上の深度を作品にもたらしている。

 ここで見つめられているのは、構造的にはラブストーリーだが、本質的には、他者の受容であり、つまりは、あなたとわたしは違う人間だ、ということを認識し続けることに他ならない。

 広瀬は、まさに反射神経でそれを体現し、永瀬は、マイペースな俯きで顕在化している。性差ではなく、演者としての根本的な差異が、多様性を肯定している。広瀬は、誰とも違う話し方(劇中では、いくつかの地方のチャンポンと語られるその方言は、広瀬すず言語と呼んでいい新しい言葉でもある)で己の生命のリズムを奏で、永瀬は、オリジナルな沈黙に、刹那の濃密を封じ込め、それが透かし文字のように浮かび上がってくるように表現している。

 ふたりを、メリハリの効いたキャラクタライズされた人々が取り囲む。いずれも浮世離れした面々だが、この人物相関図は、現代の痛みを緩和するシェルターなのだろう。それは北川悦吏子の手癖でもあるが、ああした古典的な手法が、ここではかつてないほどの説得力を伴っている。

 では、何が現代の痛みなのか。

 それは、まだ見えていない。いや、それを発見していくことが、このドラマなのだと思う。痛みを発見していくドラマ。希望やカタルシスではなく、痛みをリアライズしていくことが、おそらく本作の主眼であり、そのために、あらゆる技術が投入されていくはずだ。そのことにワクワクしている。

 これを、ただのモラトリアムと解釈することは容易い。しかし、もしモラトリアムだとして、人にはなぜモラトリアムが必要なのか、その根源に、「夕暮れに、手をつなぐ」は接近しようとしている。

 だからこそ、丁寧に生きても、上手くいかないことはある、という現実の描写が生きてくる。

 悲観的な作品ではない。だが、才能の有無についての容赦ない指摘や、優しさと隣り合わせにある悪意なき非情などをそっと忍ばせる綿密さは、作品世界を豊かにしており、ときに、深淵を覗き込んだ気持ちにもなる。

 ときめきと喪失。

 手をつないでも、日は暮れる。だが、だからこそ、わたしたちは、手をつなぎたいのだ。

 タイトルの「夕暮れ」は、わたしたちが生きるしかない世界の黄昏の暗喩であろう。手をつないだとて、なにか救済が訪れるわけではない。

 丁寧に生きても、上手くいかないことはある。

 それでも丁寧に生きることの、ささやかな勇気がここにはあって、それは、23歳であってもなくても、この過酷な現代を生きる誰にとっても必要なことだと確信している。

 バウンスする広瀬すずの身体性を、いつまでも見ていたい。
 擦り傷を擦り傷として慈しむことのできる永瀬廉の沈黙を、いつまでも噛みしめていたい。
 だが、ふたりとも、物語の推移と共に、きっと別な場所、別なベクトルへと向かっていくだろう。

 そんな痛みもまた、愛おしい。

 それが「夕暮れに、手をつなぐ」だ。

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