2008年9月の金沢「小松弥助」について。

2008年9月執筆

金沢「小松弥助」

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美しい言葉があるのではない。
言葉が美しくなるのだ。

そんなフレーズを目にしたことがある。
誰が言った言葉かはわからない。
私はいまこう思う。

美しい寿司があるのではない。
寿司が美しくなるのだ。

美しくなる、とはどういうことか。
小松弥助の寿司はそのことを教えてくれる。

急遽決まった金沢日帰り出張。
いてもたってもいられず、こちらに予約電話。
土曜の昼間。
1130~1230までならいいですよ、
となんとかもぐりこむことができた。

方向音痴の自分が迷わず辿り着けたホテルの一階。
5分ほど早めだったが、もう一組先客がいた。
カウンター、ご主人のまん前の特等席に案内される。

「●●●さん」
と、ご主人は私の苗字を確かめるように声をかける。
慈しみのこもった、けれどもヌケのいい語りかけだ。
「はい」
私は思わず、大好きな先生の前に立った生徒のように嬉しくうなずく。

お茶。
二日酔いである。
寿司の食べ歩きを始めてからは初めてのしらふ寿司。
ややつかみづらい湯呑みに注がれたお茶が美味しい。
濃い目のしっかりしたお茶で私の好きなタイプだ。
きっと寿司にもよく合うはず。

ガリ。
水っぽいタイプ。小鉢で供される。
辛さよりも甘さが先行している。酸味はほとんど感じない。
きりっとしすぎず、親しみのあるガリだ。
お茶でいただくなら、このぐらいやさしいほうがいい。

まん前の席に座ると、あまりに近すぎてご主人のお顔を見ることができなくなる。
表情などを楽しむのには、少し離れた斜めからのほうがいい。全貌が見渡せる。
今日の私はご主人の手の動きだけをかぶりつきで見ていた。
ものすごいダイナミズム。
ご主人は塩を豪快に振るので、その塩がはねて、こちらに飛んでくることもある。
まさしく相撲のかぶりつきである。

ご主人の手さばきは流麗ではない。しかし、ものすごく速い。そのスピードにお弟子さんたちはついていくのに精一杯だ。ご主人は速度をゆるめることなく、ときにはお弟子さんたちの用意を追い抜き、自らすべてをこなしていく。だが、強引ではない。それはそれでもはや当たり前の光景として目の前にある。お弟子さんたちも焦ってはいないし、ご主人もいらいらなどしていない。勢いを留めることのない健やかな手順だけがそこにある。
ぎっこんばったん。
まるで大工さんみたいな動きだ。
素人からすると無駄のある動きに見える。少しパフォーマンスも入ってるのかなとも思う。
ステップを踏んでいるようには見ない。ダンスをしているようにも見えない。洗練された動きではない。だが、ご主人ならではのリズムがある。そのリズムから目が離せない。
しいて表現するならば、そのリズムは「ドラムンベース」である。一世を風靡したダンスミュージックの一定型。ご主人のスピードはテクノかガムランに相当するほど緻密で乱れがないのだが、彼が見せる動きには不安定な中の安定がある。「ドラムンベース」の変拍子が私の脳内を駆け巡る。

いか。
しょっぱなから、食べたことのないものが出た。
刻まれたいかの細さが、豪快に振られた塩と相まって、有無を言わさぬ旨さと繊細な甘みが手と手を取り合っていた。
そこからは、一工夫あるものが、大らかに、晴れやかに、ふるまわれていく。
ご主人の明るさが全面に出た、心から美味しいと思えるものばかりだ。

づけ。
美しい。こんな綺麗なづけは見たことがない。
鮪はぽちゃんと放り込まれた。まるで家庭料理みたいな所作だった。
けれども取り出されたそれは、匠にしか生み出しえない透明な輝きがみなぎっていた。
窓から射し込む自然光。
クリアでピュアな色彩。そしてガラスの芸術品のような握り。
口の中に入れると、やはり綺麗な味がした。
鮪が綺麗に生まれ変わった。

食べてから私は言った。
「綺麗ですね。綺麗なづけですね」
ん、とご主人は嬉しそうに微笑んだ。
それからしばらく、ふと思い出したように、何度か
「づけ、綺麗か。そうか、綺麗か」
と、独り言のように繰り返されていた。
これだけ美味しい寿司を長年にわたって握ってこられた方である。
客に絶賛されることなどもはや日常だろう。
なのに、どうして、そんなに、嬉しそうなのだろう。
随分経ってからも、他のお客さんのづけを握るとき、
「づけ、綺麗か。そうか、綺麗か」
と、づけに語りかけるように、反芻されていた。

水茄子は口直しではなく、一品と呼べるものだった。
そこにこのお店の姿勢がかなりよく現れている。
手をぬかない。でも、あっけらかんとしている。

穴子をいただいたとき、背中をかけあがる多幸感があった。
私は身震いした。寿司を食べて震えたのは初めてだ。
「しあわせです」
私は言った。
「私も、しあわせ」
ご主人は言った。

どうしてそんなことが言えるのだろう。ごく自然に彼はそう応えた。
芸なのだろうか。わからない。わからないけれど、これでキャッチザハートされない客がいるのだろうか。何の躊躇もなく、心のこもったことが言えるひと。私はさらにしあわせになった。

しあわせには際限がない。

鰻と胡瓜の手巻きはあつあつで、手渡される。
まるで握手みたいな瞬間。
心から美味しいと思える。
手渡すことのできないテーブル席のお客さんには、巻き方も変えて、憎い盛り付けで供される。
心があるんだ、ここんちの寿司には。

後半はずっとフィッシュマンズというバンドの「感謝(驚)」という曲が自分の体内で流れていた。
感謝と驚き。
このご主人の存在は、ひとつの奇蹟だと思う。

すべてが完璧なわけではない。弱い寿司もあるし、パフォーマンスが優先されたものもあった。
でも、そんなの関係ねえ。

「鯵、いける? いってもいい?」
「ネギトロ巻こうと思ってるんだけど、いいですか?」
ご主人の愛らしく茶目っ気のある声がいまも残響している。

生きててよかった。

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