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優しい役ばかり演じてきたわけではないのに、思い出すのは優しい風情ばかりだ。

優しい役ばかり演じてきたわけではないのに、思い出すのは優しい風情ばかりだ。
とりわけ、女優と一緒の場面が浮かぶ。
熱心に追いかけてきたわけではないし、インタビューしたのも三度だけ。ドラマも舞台も観ていない。
だからこれは、映画の彼しか知らない一観客の想像にすぎないけれど、フェミニストだったと思う。
いや、慎ましく密やかに断言しよう。
俳優、三浦春馬はその演技において、フェミニズムを生きていた(「フェミニズム」は多義的な概念だが、これから語ることは、あくまでもわたしが想う「フェミニズム」にすぎない)。
年上の女性を年上の女性らしく見せてくれるのが彼ならば。
年下の女性を讃えながら抱きしめていたのも彼である。
同世代の女性に敬意を持って接していたのもやっぱり彼だ。
少なくとも銀幕の彼は、共演者の年齢にかかわらず、女優に対して、女性に対して、距離感を大切にしながら存在していた。
その風情の優しさが、わたしの中には残っている。
もちろん、優しさは男性にも向けられていただろう。しかし、わたしが男性だからだろうか。印象深いのは、彼が女優とともにいるときに生まれるオリジナルなムードである。そのムードが映画のニュアンスを高めていたし、映画もまたこの俳優が醸し出すものを受けとめていた。
美青年だが、甘さが香り立つというよりは、雄の野性が解き放たれるというよりは、女性を女性として咲かせる、一途で敬虔なありようこそが、三浦春馬的たたずまいではなかっただろうか。
それは狙いやアプローチや自己演出ではなく、まっさらな人間としての当たり前の姿勢だったのだと思う。相手に、そのように在ってほしいという素朴な想いが、画面には滲んでいた。もちろんそれは尊いことだが、彼にとっては、ただただ当然のことだったのだと、いまは確信している。

なぜなら、物語上、恋愛の絡まない女性であったとしても、彼の演技態度はそうであったから。むしろ、彼自身がラブストーリーの中心に位置しているときでさえ、愛おしさとは別次元の「女性へのリスペクト」が静かに脈打っていた。
リアルタイムで見つめていたとき、それは少し不思議な感触だった。だが深く考えることもないまま、繊細な心地よさに身を任せていた。
出演映画の中では近年の重要作だと思う大根仁監督の「SUNNY 強い気持ち・強い愛」。プレイボーイ風の役どころが、いわゆる下品なナンパ男には映らなかった。それを演じ手の弱さ、と捉えることもできるかもしれない。だが、これが三浦春馬の特別な部分だと考える。
「コンフィデンスマンJP ロマンス編」では、ヒロインの長澤まさみを翻弄しようとする詐欺師だったが、女を騙す鮮やかさより、女に騙される不甲斐なさに、言い知れぬチャームがあった。
「恋空」も「奈緒子」も「君に届け」も、行定勲監督の「真夜中の五分前」も。それぞれキャラクターやポジションはまるで違うのに、女優=女性を前にした彼には、どこか通ずる静謐な主観があった。前に出るのではなく、沈黙で支える、まなざしで支える。そうした振る舞いが一致していた。中国の双子姉妹と相対した「真夜中の五分前」は、異郷の地だからこそ、彼のスタンスが明瞭に立ち現れていた。
三浦春馬は、女性を翻弄する男ではない。女性(たち)に翻弄される男がしっくりくる。

「真夜中の五分前」に先立つ、青山真治監督による「東京公園」は、彼の資質が最もスクリーンに息づいた一作である。
榮倉奈々、小西真奈美、井川遥。演じるキャラクター以前に、女優としてのあり方がまったく違う3人を相手に、彼は写真家志望の大学生を演じている。
カメラアイを思わせる三浦春馬の瞳は、「被写体」が変わるたびに、モードが変幻する。それぞれの女性との距離感も変化しているが、あたりの柔らかさは変わらない。
亡き親友の恋人。義理の姉。浮気調査対象の人妻。違いすぎるディスタンスはけれども、この俳優独自の「聖なる働きかけ」によって、難なく統一されていた。
女性を尊敬する。すべての女性を尊敬する。
身近な女の子も。少し複雑な家族も。赤の他人も。尊敬しているのだ。このことにふと気づき、体感したときの感動を忘れない。

ところで思うのだが。三浦春馬の一人称には「俺」も「僕」も「オレ」も「ぼく」も似合わない。「私」がふさわしい。それも「わたし」や「ワタシ」ではなく「私」がフィットする。
実際、本人の主語はどうだったか。最も印象的なインタビュー記事を紐解いてみた。「東京公園」公開時の『アクチュール』誌。
読み返すと、発言に主語がなかった。彼は「自分」という言い方しかしていなかった。わたしは、対象者が発した主語には厳格に対処、構成する。三浦春馬は、少なくともわたしのインタビューでは「俺」も「僕」も「私」も使わなかった。間違いない。
「自分」も一種の主語ではある。だが、これほど客観的な主語もない。己にも距離を保ちながら、状況それ自体を見つめている。それが「自分」という語句が指し示す自意識であり、自己認識である。
三浦春馬は「東京公園」の主人公について、次のように解釈していた。
「自分からアクションを起こすんじゃなくて、相手に合わせてあげることができる。相手の時間帯に合わせてあげることができるような人なんじゃないかなって」
そのときは青山監督と対談もしてもらった。監督は最後に三浦にこう伝えた。
「いい仕事をしたんだよ、俺たちは。忘れないでくれよ、って感じ」

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