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『春に散る』の横浜流星は、大文字の「現代の若者」を体現する、近年稀に見る逸材だ。

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瀬々敬久監督の『春に散る』は、プロットだけ見ると、よくあるボクシングものだ。

現役時代、挫折した元ボクサーが、才能と意気に溢れる若者のために、コーチとして、もう一度、立ち上がる……わたしたちは、そんな拳闘映画を沢山観てきた。もはや見飽きていると言ってもいい。

ところが本作は、違う。俳優たちの演技が、ありふれた設定を裏切っていく。佐藤浩市が横浜流星を導く物語だと思っている人も多いのではないか。逆だ。これは、横浜流星が佐藤浩市を日の当たる場所に連れていく様を見届ける作品に他ならない。

もちろん、ボクシングのキャリアにおいては佐藤が上。佐藤が横浜を指導する。ところが、それよりももっと大切な瞬間において、横浜はあたかも佐藤の保護者のように画面の中に存在しており、その姿に何度か落涙しかけた。

これは若者の熱意にほだされて、初老の男が再起する映画ではない。傷つくことをおそれる臆病者の先輩を、後輩が、怖くないから一緒に傷だらけになろうぜ、と誘うような構造の非凡さに目をみはる。脚本が、ではなく、役者の芝居がそうなっている。

もう少し、突っ込んだ話をしよう。

年長者が若者を見初める。これが一般的なスポーツもののパターンだ。

しかし、ここでは横浜流星が佐藤浩市を見初める。だから冒頭で、横浜は佐藤に接近する。そうなるまでの横浜の視線も、きちんと記録されている。

つまり、佐藤浩市はこの映画のヒロインとも言える。

やがて横浜流星は騎士(ナイト)になり、佐藤浩市は無意識のうちに姫と化していく。そんなふうに捉えることも可能だ。きっと、もう一度観れば、さらなる気づきがあるかもしれない。

自身の頼りなさを黙殺して生きてきた元ボクサーを、佐藤浩市は一切美化することなく、しかし惨めにもせず、ただ軽やかに演じている。後腐れのない芝居は、近年の彼のベストアクトと呼んでいい。瀬々とのコンビネーションでは最良の成果と言えるだろう。

横浜流星は一貫して現代を体現する演じ手だが、ここでも日本映画が漫然と描いてきた凡庸な若者像には決しておさまらない。ボクシングへの熱意だけが先走る無鉄砲な若者は、ここにはいない。横浜が体現するのは、硬質な抱擁力であり、慎重な決断だ。人物造形の彫りが深い。

佐藤浩市も、横浜流星も、世界でたった一人の人間を演じている。その気概が、手と手を取り合っている。そうして、実は精神年齢においては、コーチとボクサーの内実が逆転していることが、じわじわと明るみになっていく。だからこそ、『春に散る』は愛おしい。


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人生すべてを失うかもしれない、危険な試合に横浜流星は挑む。リスクが大きすぎる無謀を、佐藤浩市は止めようとする。

両者はここで、ほぼ初めてぶつかる。ここでの横浜の芝居がいい。栄光を掴む己の欲望よりも、横浜がすべてを失った時、後悔するかもしれない佐藤の恐怖を、何も言わずに見つめている。

これが、横浜流星ならではの、硬質な抱擁力だ。

明確な言葉は、そこにはない。だが、老コーチの畏れを見据えた上で、自分は闘いたい、と丹念に伝えている。ごり押しではないのだ。強い意志が、丁寧に形作られている。

どこかビビっている佐藤浩市。あるべき年長者の枠に逃避しようとしている。横浜流星は、年長者のそんな弱さも受け取りながら、あくまでも慎重に対処している。芝居がそうなっている。だから、台詞を超えた次元で、想いに説得力が生まれる。

そうして、一瞬だけ、両者の立ち位置は入れ替わる。このモーメントの前では、もはや試合の勝敗の行方はどうでもよくなるほどだ。シンプルに、グッとくる。ふたりとも、奇を衒わない。

キャラクターの、というより、横浜流星自身の根気強さが、その情景からは伝わってくる。


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浅野忠信が若者だった時もあるし、窪塚洋介が若者だった時もあるし、妻夫木聡が若者だった時もあるが、いまは横浜流星が若者を体現している時代なのではないか。

菅田将暉や山﨑賢人は極めて優れた俳優だが、現代の若者を体現していたとは言い難い。それは、かつて木村拓哉が若者を体現していたわけではなかったことに、よく似ている。いい意味で、菅田はどこまでいっても菅田だし、山﨑はどこまでいっても山﨑でしかない。だが、ふたりが特権的な役者であることに変わりはない。

浅野や窪塚は唯一無二の存在だったが、若者という存在の、ある局面を指し示してもいた。時代もエッジーだったし、若者もエッジーだった。浅野や窪塚のエッジーな部分も、そういう状況の中で、増幅され、さらにより一層輝いた。

横浜流星は作品によって印象が変わる。だが、それは憑依体質ということではなく、作品に対して、勤勉で実直だからなのだと想像できる。たとえば、オレはオレだから、というようなアプローチの誇示が見当たらない。骨っぽいのに、アンチマッチョイズム。淡々と、やるべきことをやる。だが、職人や匠への志向とも違う。もっと、当たり前に低姿勢。とにかく、真っ当で、真面目。演じ手としての肌ざわりは、これだ。

真っ当で、真面目。これが、現代の若者の特徴だとわたしは考えている。それが結果的に、清潔さや清冽さにもつながっている。横浜流星の仕事に対するストイックな向き合い方は、そんな若者たちの像にリンクする。

彼はこの映画でボクサーを演じて、プロライセンスまでとってしまったらしい。かつてなら、のめり込みすぎの狂気や、我が道を往く破天荒さとして語られるところだが、横浜流星に、狂気や破天荒は見当たらない。元々アスリートだということもあるだろうが、真っ当で真面目だから、結果的に、そこまでいってしまったんだろうな、という妙な納得感がある。

全く驚かなかった。横浜流星ならやるでしょ、だって、真っ当で真面目だもの。そうおもった。自然な成り行き。

そもそも、やんちゃなイメージがまるでない。

浅野も窪塚も妻夫木も、やんちゃさがあった。木村拓哉にだって、あった。それが、あの時代をあらわしてもいた。やんちゃな時代だった。

現代の若者たちには、無軌道さを感じない。いまは、やんちゃな時代ではなく、もっと実直な時代だ。

アフターコロナは、しぶとく強く生きていかなければいけない。横浜流星には、孤独に強く、打たれ強いイメージがある。わたしは勝手に、横浜流星に、若者の未来を仮託している。


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木村拓哉、浅野忠信、窪塚洋介、妻夫木聡らの下の世代は、凄まじい才能の宝庫だ。

たとえば、濱田岳、染谷将太、池松壮亮。この三人は、落語家で言うところの名人に相当する。この三人とは別次元に、神木隆之介という天衣無縫の才人がいる。この世代は、なんと層が厚いことか。惚れ惚れする。

全員、子役出身である。

子役出身と言えば、この世代には、名人とも天才とも異なる孤高の道を進んだ三浦春馬がいて、やはり一匹狼と呼んでいい異能の王、柳楽優弥がいる。

子役からキャリアを積み上げてきた演じ手は、いわゆる「若者」を体現することがない。彼らは、世間とは別な時間を生きてきたからだ。

子役出身とは違う、彼らの同世代、佐藤健、岡田将生、松坂桃李らもまた、その時代の「若者」像を感じさせることはなかった。

これは興味深い傾向である。

多様性が叫ばれる以前から、彼らは多様であり、それぞれが、それぞれのやり方で演技的説得力を鍛え、世間に媚びずに技を磨いてきた。

だから、「現代」や「若者」と言ったイメージの象徴に組みすることがなかった。浅野忠信や窪塚洋介のような、時代の気分を感じさせる俳優が見当たらない。それぞれが、それぞれで素晴らしいという、理想的な状況。

切磋琢磨もあった。

柳楽優弥と三浦春馬がある種のライバル関係であったこと(少なくとも、柳楽はそう意識していたと公言している)。
そして、彼らより少し年少の菅田将暉と山﨑賢人が併走していたこと(山﨑は較べられるのが嫌だったと吐露しつつ、菅田の才能を認めている)。
なんと豊かなことか。

まるで、市川雷蔵と勝新太郎が、互いを認め合い、並走していた日本映画の黄金時代のようだ。

ここにもう少し年長の面々も加えてみよう。

山田孝之は、紆余曲折の末、プロデュースなども手がける、無頼な立ち位置の役者になった。
綾野剛は、現代の弱者に寄り添うアプローチをキープしつつも、俳優としてはやはり無頼であろうとしている。
両者には古き良き時代への憧憬もあるのではないか。

いずれにせよ、彼らが形成する俳優地図は現在、世界最高峰と言って過言ではない。


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ただ、この豊穣な世代からは、「現代の若者像」を体現する俳優が現れていなかったと感じる。

『春に散る』つながりで言えば、一時期の窪田正孝には、ストリートの匂いがあった。窪田はデビュー前はガソリンスタンドで働いていたという。現実と地続きの感触があった。そんな窪田もキャリアを重ね、すっかり名優。今回も硬軟入り混じる絶妙な存在感で、横浜流星の前に立ちはだかる。

ジャニーズの人たちはみんな芝居が抜群に上手いが、基本的にまずステージに立つパフォーマーとして出発するので「現代」や「若者」を纏うことはない。むしろ隔絶している。そこが魅力でもある。

だから、横浜流星は「現代」と「若者」を同時に感じさせる久しぶりの逸材なのだ。

わたしがここで言う「若者」とは、市井の無名の若人たちの「生きる気分」の堆積を背負うことができているか、ということ。横浜流星以外でパッと思いつく大きな存在は、いまのところ北村匠海しかいない。北村も素晴らしいが、ややスタイリッシュだ。

横浜や北村よりは年長で、菅田将暉や山﨑賢人の同世代である吉沢亮は、演技派スタアと呼ぶべき存在であり、やはり「若者」は感じさせない。


横浜流星は、どこか地味なのだ。噛み締めがいのある地味さが美貌を上回っていて、そこからスパイシーな愚直さがこぼれ落ちている。

構えが低い。地べた感がある。役ごとに異なる頑なさがあって、そこもリアルだ。匍匐前進している兵士のごとく。泥にまみれて当たり前。そんな風情が、逞しく、頼もしい。

時代心理というものがある。

横浜流星には、それを感じる。

現代は誰にとっても困難な時代である。青春期の3年をコロナで奪われた若者たちは、とりわけ苛烈だ。しかし、彼らと話してみると想像以上に冷静で、そして地道だ。

一歩一歩、踏みしめ、出来た轍だけを信じる。そんな地道さ。

横浜流星の演技を見ていると、バットを短く握って確実に塁に出る打者が想起される。一発ホームランをかっ飛ばそうとするダイナミックな野心より、一塁、二塁、三塁、そして本塁へと着実に還ってくる一途でひたむきな、粘り強さ。

そんな彼が、再来年の大河ドラマ主演に抜擢されたことは、この時代の必然であり、未来へのひとつの光明にもおもえる。

登場した人たちの年齢。

佐藤浩市(62)

木村拓哉(50)
浅野忠信(49)
窪塚洋介(44)
妻夫木聡(42)

濱田岳(35)
染谷将太(30)
池松壮亮(33)
神木隆之介(30)

菅田将暉(30)
山﨑賢人(28)

三浦春馬(30)
柳楽優弥(33)

佐藤健(34)
岡田将生(34)
松坂桃李(34)

山田孝之(39)
綾野剛(41)

窪田正孝(35)

北村匠海(25)
吉沢亮(29)

横浜流星(26)

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