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そばにいる、ということ。トラン・アン・ユン、『ノルウェイの森』を語る。

トラン・アン・ユン

『ノルウェイの森』を語る





 映画そのものが生きもののように、そばにいる。植物が放つ湿った匂いや、鳥がむき出しにする羽根の音、爬虫類の身体に横たわる低温の感触、そして人間の肌や産毛がはらむ懐かしさ。そのようなものたちが映画「ノルウェイの森」には息づき、私たちは即物的に、搦めとられる。 

「ありがとう。そんなふうに感じてくれて、とても嬉しい。そばにいる、という感覚は、原作から感じとったものなんだ。僕に近いところにいる。だから、映画化した。僕もなるべく観客とそういう関係を作りたかった。観るひとがそんなふうに辿っていけるような構成、質感にした。観客との距離を縮めるためにね。まず、肌の近くにいたいと思った。カメラをできるだけ俳優の近くに置いて、肌を感じるようにしたんだ。照明は暗めにする。そうすれば観客はより見つめるようになる。近づいてほしかった。構成においては、驚きを与えたかった。驚きながらも、実は観客自身がそれを望んでいたんだ、と後でわかるようなものを与えたかった。見た、それは自分が見たかったものだった、そう思ったとき、ひとは映像に近づけるはずだから」

 驚きと希求。その邂逅が親密さを生む。それは読者が小説に近づくときに派生する親密さによく似ている。それは観客が映画に感情移入するときの距離よりもずっと近い。 

「近くにいること。それは村上春樹という作家の力だろうね。僕には定義できない謎のメカニズムによって、『ノルウェイの森』と僕に、とても親密な何かを作り上げてくれた。僕の外側にあるものを映画化しているとは思えなかった。『ノルウェイの森』は、僕のなかに存在していた。だから、それは困難ではなかった。難しかったのは、僕のなかで同時に沸き上がるものを同時に映画にすることだった。つまり、個人的なものを映画化することが困難だった。様々な指揮者が、ある曲を指揮する。それと同じさ。原作は僕にとって譜面のようなものだった。ワタナベ、直子、緑、レイコ、ハツミ、その他の全員の音楽家が一緒に演奏した。彼らの人生が、このときに会した。彼らだったからこそ、このような音楽が奏でられたんだ。つまり、これはひとつの提案であって、忠実な映画化ではない」

 指揮者は、演奏者は、譜面から新しい音楽を創造する。そして、楽曲そのものをそれまでとは違うかたちで発見させる。私たちは映画を通して、「ノルウェイの森」という小説がフィジカルであったことを知る。小説そのものに肉体が備わっていたことを知る。 

「映画化する上で、あまりにも原作を深いところまで掘り下げているので、自分が作者の頭のなかに入り込めたという気がしてしまう。だから、僕が何かを発見したかどうかはわからない。発見ということで言えば、僕はいままさに発見している渦中にいるんだ。僕はあえて『ノルウェイの森』以外の村上作品を読んでいなかったからね。映画が出来上がって、ようやく他の小説を読み始めている。

 フィジカルな面はこの作品にとって、とても重要なポイントだ。僕は、皮膚があるところには、魂があると思っている。肉体的な運動には、思考がある。主人公の姿は、まさに徐々に魂が出来上がっていく動きなんだ。この運動は、常に緊迫した状態でもある。次々に困難にぶち当たっていくわけだからね。ワタナベは、怒りを外に追い出すために、まるで自分に罰を与えるように、肉体労働を繰り返す。彼のフィジカルな実際の運動が、彼の心を表しているんだ。それが観客の身体に伝わる。そして、ワタナベと直子が草原を行ったり来たりしながら話すシーン。俳優に速く歩いてもらうことで、息や話し方に影響が出てくる。それがふたりにとって非常に辛いことであるということが、心理的にだけでなく、実際の身体で伝えることができる」

 息があがる。呼吸が乱れる。そのことによって松山ケンイチの、菊地凛子の声が、巧妙な芝居とは別種の、身体の音へと飛翔する。それは、それぞれ固有の音だ。映画「ノルウェイの森」は、演技のトーンを統一しない。水原希子も、玉山鉄二も、高良健吾も、霧島れいかも、初音映莉子も、それぞれがそれぞれの音を出して、音楽を形成する。コーディネートしないことで、こぼれおちるアンサンブルがある。 

「その通りだ。僕が彼らに何を求めているかと言えば、その都度適切であるということに他ならない。それはもちろん、彼らという人間を通してのことだ。適切である、ということが美しさをかたちづくる。君が言うように、僕はなるべくコーディネートをしたくなかった。たとえばハツミは、ワタナベや直子や緑とは、完全に異なる人物だ。とにかく、丸いつるつるとした、磨きをかけたような芝居はしてほしくなかった。ひとりひとりに個性がなければいけない。照明においても、構図においても、撮影においても、それは同じだ。シーンが持つ意味だったり、登場人物のそのときどきの心理状態だったり、すべてを考慮したいまという状況にフィットした方法で撮る。そこにはルールというものはない。この映画にある特定のルールがあるわけではない。撮ったときに適切だと感じられればそれでいい。その日にはその日の適切さがあり、別な日には別の適切さがある」

 移動する適切さ。運動する適切さ。すなわち、生きている適切さ。つまり、死んでいない適切さ。 

「そのためには撮影現場では、非常に注意深く、すべてを見る、すべてを感じることが重要になる。必要だったのは、判断する、ということだけだった。それらしいムードの繊細さなんていらない。むしろ、力のこもった繊細さがほしかった。そうした繊細さは、事前に作り上げようと思って作り上げられるものではなく、ある瞬間に全員がふと集中したことによって作り上げられるものなんだ」

 選ばれた瞬間。それは誰が選んだものか? おそらく繊細さが選んでいるのだ。 

「繊細な映画はたくさんある。しかし、大抵は応用された繊細さでしかない。今回はそうした繊細さではない。それを作り上げられたことが、とても嬉しい」

 「青いパパイヤの香り」「シクロ」「夏至」そして「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」。これまで一貫してオリジナル脚本による作品を発表してきたトラン・アン・ユン。彼は他者である村上春樹の小説を初めて自身の体内に取り込んだことで、新しい細胞を発芽させたように思える。映画「ノルウェイの森」が小説「ノルウェイの森」を新たな文脈から見出すことを可能にしているように。 

「僕は、僕の他の作品と較べたりはしない。だから、その質問には答えようがない。ただ、これは僕個人の、村上春樹の小説の映画化だ。この作品の新しい見方を提案したとは思っている。僕としては新鮮な見方を提案したつもりだ」

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