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夕暮れに、手をつなぐ。side音

音を謎の人物として捉えると、このドラマの位相は大きく変わってくる。

音は積極性に欠ける人物として描かれていた。どこか受け身で、だからセイラの存在も受け入れた。
創作に対しては頑固かもしれないが、彼は誰に対しても優しい。セイラにも。磯部真紀子にも。響子には従順で爽介には憧れていた。だが、それは本当の優しさなのだろうか。

状況が滞りなく進むことを何よりも優先しているように思える。すべてを肯定するのではなく、摩擦や軋轢を回避することが最重要課題なのではないか。
音の背景がほとんど描かれないことも大きい。ノーブルな永瀬廉のルックスも相まって、時にフラットに、時にクールにも映る。

空豆は音の真逆を生きている。彼女は摩擦や軋轢を回避しない。怒りも表明する。彼女には発見と実行力がある。
音にとって空豆は惹かれる対象であると同時に、畏怖すべき存在だった。このスリルに序盤のときめきがあった。

音は、たぶん何も発見してこなかった人で、そんな彼が唯一発見したのが、空豆だった。
だから、彼はその発見の瞬間に取り憑かれた。
その発見を告白に昇華するまでに、ものすごい時間がかかった。
作曲家がひらめきを楽曲化するのに歳月を傾けるように。

その歳月のあいだに音は変化した。

彼はひらめきにしがみついていた。目標を達成しようとしていた。その結果、自分の変化に気づけなくなった。

“空豆をイメージして曲を書いたよ”

現代のドラマで、そんなクサいシチュエーションはありえないだろう。
だが、間接的にでも、空豆が音にとってミューズである描写はなかった。音は現代的な、そして孤独な表現者だった。
空豆に自分の曲を理解してほしいとも思わなかった。ここが悲しい。

音の変化を永瀬廉は深く高度に演じている。

俳優としての永瀬廉は初めて見たが、画家にたとえるなら完全に水彩画で、描き込みが半端ない。一方で、余白をたんまり抱え、見る者の想像力を試すところがある。
あの半開きの唇は、静かなる挑発であり、人物像の本質を絶対に「自供」しない痛烈な拒絶の表れでもある。
画力があるからこその冷涼な太々しさ。


音の内部には、出逢った頃の空豆が確かに存在している。だが、現実の空豆に対する距離の取り方が変わった。
九話の切なさはそこで、空豆が「手をのばせば届く?」と問うた時、「届くんじゃない?」と音は答える。
相手の言葉を塗り替えようとはしない音の控えめさが、残酷に映る。
そして抱きしめるのだが、空豆の涙ながらの希求には具体的には応えない。
パリ行きを人づてに聞かされたことへの不満を述べていたが、その不満は現実の空豆と再会しても解消されなかったようだ。

セイラを発見したのは空豆だった。
音を発見したのはセイラだった。
この三角形においても音は宙ぶらりんのポジションで、しかしBPMは売れた。
音のキャリアが、空豆のキャリアより少し先行することで、音の空豆への態度は変化した。セイラが仕組んだ策略に翻弄されたのではなく、音は変化した。

もう音は空豆に畏怖を感じていない。
九話は、そのことをあからさまにした。
ファッションデザイナーとしての空豆の才能について音はほぼ無関心だった。空豆は音の曲に興味を持ち、敬意も払っていたが、音はやがて空豆に曲を聴かせることもなくなった。
果たして二人は同志だったのだろうか?

セイラが音に「あれは嘘だった」と告白した時、音は動揺しただろう。レコーディングを優先した気持ちはわからないでもない。だが、あんな落ち着いたメッセージを(磯部真紀子に見守られながら)書けるなら、なぜ、と思わずにいられない。飛行機をぼんやり見つめ感傷に浸る余裕が、謎だ。

音の中には確かに「好き」はあった。
だが、それは出逢った時のときめきでしかなかった。音はその「好き」に固執し、その「好き」を3年寝かせた。きっとパリに出向くことは考えもしなかっただろう。なぜなら紅白で空豆の衣装を着ることが、最終目標だったからだ。しかしそれは音の目標でしかない。

3年寝かせた「好き」を実現させるために、ライヴに呼ぶ。「来て」と。自分はパリには行かなかったが、「来て」とメッセージする。
それでも行く空豆はやはり本気で音が好きだったのだろう。才能を失い、才能に別れを告げた空豆の縁(よすが)はもうそこにしかなかった。

音は、歩道橋の上から、路上の空豆を呼びとめる。ふたりが出逢った交差点で告白する一大プロジェクトの実現。だが、その前に、上と下の上下関係があった。残酷な上下関係を、ドラマは冷徹に見据える。

空豆は、それに応じた。自ら、捨て猫のようにぴょーんと音に抱きついた。音の人生のキャストになった瞬間。
だけど、空豆の人生はどこに行ってしまうのだろう?

ラスト。響子や蕎麦屋の影はもうない。
だがそれでも大東京パーカーを着ている空豆がせつない。彼女はもうドンキが似合う女の子ではない。なのに着ている。着ているほうが「ここ」にいられるとおもったのだろうか。

ドラマのラスト、空豆は音にもたれかかる。そんなこと一度もしなかった女の子が、もたれかかる。



空豆は、桜だったのだ。
ごく数日しか咲くことのない。
響子と仲間たちは、花見客。
満開を終えたら、もう見には来ない。

桜は、散った。
久遠は、また来年咲かせりゃいいじゃんよ、と諭すが、空豆はもうそのために三百数十日闘うのは嫌だ、と断る。

わたしは、もう咲かないと。


女性と男性の道行き。その幸不幸は他人が判別することではない。連ドラにおいては誰からも祝福される健やかな恋愛が讃美されがちだが、どうしようもなくそうなってしまった関係性というものがある。空豆と音はプラトニックだが、プラトニックだからこそ傷だらけになった。そこに幸不幸の概念はない。

空豆は明確に傷ついたが、おそらく音は無意識をズタズタにされたのだろう。音は空豆のように感情が表出する性質ではない。傷が可視化される人と、されない人がいる。どちらも辛い。
水鉄砲でキスを先送りにされた時、音は傷ついたはずだが、空豆にとってまだ機は熟していなかった。すれ違いは常に在る。

傍観者は、あれも二人ならではのコミニュケートでしょと微笑むかもしれないが、当人同士にとっては、魂とアイデンティティを賭けた熾烈な攻防戦。音は、すっかりその気。だが空豆は、完璧に斥けた。
恋愛は勝負事ではないが、一方が負け、一方が勝つことがある。あの敗退が音の深層に遺した傷だって存在する。

だが、音は、そんな空豆に惹かれたはずで、そんな空豆が消えてしまった空豆と結ばれる最終盤の展開は、主導権が完全に音に移行していることも含め、どこまでもかなしい。

これは成就や昇華ではなく【悲恋の完成】なのだとおもう。

よくぞこんな物語を創り上げたものだ。考えれば考えるほど驚嘆する。


北川悦吏子は、古典性と現代性が混じり合う、彼女だけのトラジティを完成させた。

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