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タイムスリップおばけ

 台所の棚の奥から、未開封の玉ねぎドレッシングが出てきた。賞味期限から推察するに、去年の淡路島旅行で母が購入した、たくさんのお土産のひとつだ。買い主の母は入院中で不在のまま、家に帰ってこられる目途も立っていない。
母を囲んで子と孫の、家族総出で行った淡路島では、温泉に入って、うずしおクルーズ船に乗って、近所に配るたくさんのお土産を買って帰ってきた。そこからまだ一年も経たないのに、母が病院を転々としながらリハビリ生活を送るようになるとは思いもしなかった。こんなことならもっと色んな所に連れて行ってやればよかった、とつい感傷的になってしまう。
 
 旅先で買った品物を見つけては、その旅行を思い出すなんてことは、誰にでもあることだと思う。ところが私の場合は鬱っぽくなると、あらゆる物や出来事を通じて、過去のことを思い出してしまう癖がある。
 
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 リビングのお掃除ロボットを見て、「あれ、これ何年前に買ったっけ」と考える。2015年製、と書いてある。9年前か、たしかこの頃はまだ病院に勤めていて、管理職になって部下がトラブル続きで辛かった時期だよなー。そうそうこれをヨドバシに買いに行った帰り、当時仲の良かった崔くんと駅前でごはんを食べに行って、延々愚痴大会になった。明日からまた仕事行きたくないなー、なんてお互い言いながら。もう5年近く崔くんとも連絡を取ってないけど元気かな。
……と微に入り細に入り、一気にその当時を思い出す。お年寄り同様、最近の言葉はなかなか出てこないのに、昔のことは鮮明に覚えている。
 
 これがたまにであれば、まあそういうこともあるだろう、となるかもしれないが、鬱の間はとにかく後ろ向きにしか物事を考えられず、目につくものそれぞれがいちいち過去を想起させ、とにかく心が忙しい。
 
 そしてその思考はパターン化していて、毎回その〇年前の出来事を思い出した後、果たして自分はその頃に戻りたいだろうか、と全く意味のない問いを立ててしまう。
 
 15年前に家をリフォームしてくれた工務店さんが閉店されるそうだ。そういえば15年前は厚木の病院で働いていたな。あの頃に戻れるとしたら、やり直してみたい?
治験コーディネーター修行初任地の職場は、規模こそ大きくはなかったが、人情味のある人たちばかりで楽しかった。でも副院長は横暴で仕事は毎日キツかったし、誰一人知る人のいない場所で友達ができずいつも孤独だったな。やっぱり戻りたくはないか。
 
 冷蔵庫を買い替えた。古い冷蔵庫はいつ買ったんだろう。製造年は書いてないけど、説明書を見ると、三洋電機の郵便番号が5桁で書いてある。ということは、郵便番号が7桁になったのは、、、スマホで調べてみる。平成10年らしいから、少なくとも25年以上前に買った物か。ということは、僕が大学か大学院に行っていた頃こいつは家に来たんだ。もしもこの頃に戻れたら、就職先も一から考え直して、今とは違う、もう少し思うような道を選べたかもしれないな。でもあの頃は大学の授業について行くのにも、国家試験対策も必死だったし、大学院では実験成果が上がらず苦しい毎日だった。いやいや、あの日に戻るなんて考えられない。
 
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 こんなことばかりやっているなんて、自分でも馬鹿げていると思うし、なんて非生産的でマイナス思考の人間なのかと思う。でもやめられない。折に触れ過去を思い出している間は、一瞬でその当時にタイムスリップして現実から離れられるから。ネガティブで非建設的な行為であることは百も承知だが、解った上でそれを愉しんでいたりもする。
 
 晩年身体や頭が不自由になると、行きたいところに行ったり、やりたいことができなくなったりするから、若いうちにたくさんやりたいことをするべきだ。そうすれば、その思い出を糧に老後を過ごすことができる、と聞いたことがある。
 私はもうずっと心が不自由なので、若くして過去を反芻する癖がついてしまっている。少ない思い出を無数の心の胃袋で咀嚼しては、味がしなくなるまで食み続けている。
 
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 今日は入院中の母のために、ちょっと高価なパジャマを買って行った。この先いつか、この手触りの良いガーゼパジャマを仕舞うとき、これまでのように「これを持って行った日、母は妹手製の梅おにぎりを喜んで食べてくれるぐらい食欲あったよなあ」などと顧みてしまうのだろうか。

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