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いつか見た風景 1

「月から戻った男」

 月から戻ったばかりの男が言ったんだ。月のクレーターってのはさ、一種の記憶の穴だったってね。そこには昔ちゃんと森とか町とかあって、楽しいだけじゃないけれど、それはそれは懐かしい風景に満ちていたって。だから私も昨日の夜にちょこっと行って来たんだよ。ここだけの話、無重力で踊っていると、なんだか夢の中を浮遊しているみたいでさ、全くストレスが無いからね。だから、どんどん浮かんでくるんだよ。昔の記憶って奴が。そうそう、大阪万博で初めて見た月の石は、厳重な筒状の透明なケースの中で、なんだか居心地が悪そうだった。月面の「静かな海」ってところから、アームストロング船長たちが持ち帰った正真正銘の月の石だよ。そいつを一目見ようと連日大行列だったから、なにしろ自分のことを良く知らない地球の人間たちに物珍しそうにジロジロ見られていたからね。奴はきっとこう思っていたに違いないんだ。オレはあんたらと大して違いは無いんだよ。ただの石だからね。ただの人間と同じだよ。月で生まれたから地球の記憶は無いけれど、地球の石だって年取りゃ忘れちゃったりするんじゃないのかな。自分が地球で生まれたことをさ。だからオレだって大して覚えてないんだよ、月のことなんか。…そう言えば、あの時の月の石はなんだか化石化した宇宙人の脳みそみたいだったな。


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退屈が更なる退屈を生み出すように、あやふやな記憶もまた更なる怪しい記憶を生み出していく。あやふやで怪しい世界の住人である私の前に、たびたび私の息子を名乗る怪しい男が登場しては口うるさく同じ話を繰り返して行く。

「クスリは飲んだ?」「メマリーとマグネシウム」「記憶と便秘に効く奴よ」「また昼寝?」「昼寝と昼寝の間に昼寝してるじゃん」「カヨコさんは死んだんだから」「トイレの右の部屋だって」「だからそこにあるでしょ、カヨコさんの位牌が」「勘弁してよ、夜はちゃんと寝なくちゃ」「え、何で伊勢丹でバームクーヘン買って来ないといけないのよ」「金曜日のヘルパーさんがバームクーヘン好きだからって、何言ってんのよ」


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トイレを流すたびに記憶も一緒になって流れて行く。渦を巻いて一緒になって流れて行く。そんな思いに襲われる毎日でふと気づくこともある。流れた記憶は一体どこに溜まるのだろうか。その記憶を回収する人間がきっといるはずだ。市の清掃課だろうか。民間の専門会社が請け負っているかも知れないな。浄化され、或いは溶解され、どこかの工場に運ばれて、再生紙のように再び誰かの役に立ってたりするのだろうか。役に立っているならば、まあそれはそれでいいさ。

「カヨコ、済まんな、今日はバームクーヘンを切らしているんだよ」


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