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清濁併せ呑む

新婚生活がはじまって1年半が経った。

この1年半を表す言葉は「清濁併せ呑む」の一言に尽きる。
海は清流も濁流も、緩やかな波も激しい波も、区別することなくすべてを受け入れることから、「善悪の区別をすることなく来るがままに受け入れる人」を指す言葉だという。
いいことも悪いことも、一緒に飲み込む。
結婚生活に1番近い言葉だと思う。

好きな人と一緒に生活できることは、たまらなく楽しい。
だけどその好きな人は、わたしがお腹がいっぱいのタイミングでケーキを出したり、ものすごく集中している作業の最中に話しかけてきたりする。
その度に呪文のように「清濁併せ吞む」と心の中で唱える。

さて、これを読んでいるあなたが、「私は結婚するんだ」と一番実感したのはいつだっただろうか。私は、相手の実家に挨拶に行った時だった。
「新しい家族が増えるんだ」と、身が引き締まる気持ちがした。

あの頃、夫の両親にとって、私はまだ「お客さん」だったと思う。
そして、相手が自分を「息子が選んだ結婚相手」としてしか見ていないように、私も相手を「夫を産み育てた人」としか見ていなかった。

結婚して間もない頃、夫の両親とポーランド食器の専門店に行った。
結婚祝いに、夫とお揃いのマグカップとお皿を買ってくれるという。
「好きな柄を選んでね」と言われ、ずらりと店に並んだ色とりどりのポーランド食器を目の前にして、胸が高鳴った。
ところがその帰り道に、義母が「息子は朝食を食べる習慣がないの。健康のために朝食を食べてほしくて。それで2人お揃いのマグカップとお皿を贈ろうと思ったのよ」と言った。私は「息子のためだったのか」と少し寂しくなった。

今はあの頃よりも、「家族」に近づいている気がする。

たとえば、私と夫が暮らす家の窓には、義母が手作りしたカーテンがかかっている。私はいつもそのカーテンを背景にオンライン会議をするのだが、会社の上席やクライアントに「素敵なカーテン!」と褒められる。その度に「義母の手作りなんです」と説明し、私は誇らしい気持ちになる。

ある日、かかりつけ医を探していた義母に、MR時代に担当していた医師を紹介した。義母が受診した翌日、医師と義母の両方から電話がかかってきた。医師いわく「お義母さんが来てくれて、あいちちゃんが担当していた当時のことをお話ししたよ」と。義母からは「先生が『あいちちゃんが今の会社を辞めることになったらうちのクリニックで働いてほしいと思ってるんですよ』と言ってくれて鼻高々だった」と。

身内が褒められると、自分まで誇らしい気持ちになる。
それはつまり、他人を超えた人間関係であるということだと思っている。

私は夫の両親がとても好きだ。
「夫を産み育てた人」というだけでなく、人として憧れ、尊敬している。
きっとこの先、激しい波がやってくることもあるだろう。その時は「清濁併せ呑む」と呪文を唱えてやり過ごそうと心に決めている。

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