見出し画像

米朝師匠のお墓参り

こどもの頃は、夕方や日曜日に、よく祖母と一緒に、お相撲・時代劇・歌舞伎・落語のテレビを見ていた。そのおかげで、少しくご隠居さんっぽい嗜好に育ってしまい、今に至る。

 中学生の頃から少しずつ自分の意志でも落語を聴き始めたのだが、初めに聴いていたのは家にあった江戸落語大全みたいなカセットテープで、志ん生を聴いたり小さんを聴いたりして、その後も、ずっと江戸落語しか聴いたことがなかった。やっぱり、仙台あたりでは、落語といえば江戸落語だったのだろう。

 それが、なにかの拍子に、初めて上方落語を聴いた。上方落語とは、大阪、京都を中心とした地域で発展した芸能で、その成り立ちは江戸落語とはだいぶ違う。一時期衰退しかけたのだが、昭和の中頃に上方落語協会が発足し、復活を遂げた。そこに大きく貢献した中興の祖のうちの一人が、のちに人間国宝となる三代目桂米朝である。

米朝師匠の落語で、初めて聴いた噺が何だったのか、今では全く思い出せないのが残念だが、華やかな上方の空気感、はめもの(お囃子が入る)にも驚いた。加えて、米朝師匠の語り口の柔らかさ。上品で、華があって、知的で、ちょっとお茶目で、かっこいい。苦々しい顔で人情噺を語り、まくらでよその一門の悪口ばかり言う江戸落語と全然違う。(まあ、そんな江戸落語も好きだけれどもだ)

 それからは、米朝落語ばかり聴くようになった。
米朝師匠が「今日はまた、今はもう誰もやらんようになった古ぅい噺を聴いていただきます」という時は、枕で大事なことをいう時である。これから話す噺に必要な基礎知識のようなものを一通りさりげなく教えてくれて、サゲ(一般的にはオチと言われている)で「ああ!枕で言ってたあれ!」となるんである。そうやって米朝師匠に教わった知識は、歌舞伎や浄瑠璃を観るときに本当に役に立つ。縦にも横にも理解が深まり、米朝落語のおかげで、日本の伝統芸能一般を楽しむことが出来るぐらいになった。時折は、湯船につかりながら、米朝師匠の真似で義太夫を唸ってみたりもする程である。 
米朝師匠は学者肌の落語家と言われる。それは、米朝師匠が落語家に弟子入りするより先に、落語研究家にして作家である正岡容(まさおか いるる)に弟子入りした人だということがとても大きい。非常に学究的な方だったのだ。ひとの知的なところに弱い二郷愛、イチコロである。

 生前のお姿は数回、東京の米朝一門会で拝見した。もう高座に上がることはなさらず、よもやま話をするという趣向の舞台ばかりだったが、わたしは大満足だった。あの頃は、米朝一門会を観て、歌舞伎座の夜の部に行って、次の日は歌舞伎座の昼の部に行って、帰ってそのまま仕事、みたいなことばかりしていた。行動は若いが、その内容は精力的な婆さんである。
そして3年前、とうとう姫路にお墓参りに行った。国宝・姫路城を見学してから、タクシーを飛ばし、名古山霊苑にある米朝師匠の墓所へ。姫路城と米朝師匠、同じ国宝でも、わたしにとっては姫路城よりも大切な国宝である。

 暖かい春の日だった。桜は葉桜になり、日が傾きかけた頃だった。

 米朝師匠はご実家が神社だったため、お墓も神道のそれである。墓所は「米」の形に墓石が配され、腰を掛けて一休みすることが出来る作りになっている。タクシーを待たせたままでの参拝で、少しく慌ただしくもあったが、それでもわたしは米の字の墓石に腰を掛けて、桜の有平糖をお供えし、米朝師匠に感謝の気持ちを伝えた。

 米朝師匠がいらっしゃらなければ、今の上方落語はなかった。まさに人間国宝となるに相応しい功績を残された。米朝落語に出会わなければ、わたしの伝統芸能への愛も、ここまで強いものにはならなかっただろうと思う。

 だからわたしは、今日も米朝師匠の落語を聴く。100回も200回も聴いたであろう噺を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?