◎鹿鳴館

前回勉強した三菱一号館を設計したジョサイア・コンドルの一番有名な建築物である「鹿鳴館」を改めて調べてみました。

明治16年に完成した鹿鳴館は、鹿鳴館として使用されたのはわずか4年程で、あちこちに払い下げられ売却され、最終的には昭和15年に取り壊されてしまう。

建築家の谷口吉郎は取り壊される鹿鳴館を見て「明治生まれの人が、所持品を持ち込んで小さな博物館にできなかったのか。そうしたら明治時代の人から次の時代の人へのいい贈り物になったと思う」と言葉を残している。

当時鹿鳴館に招かれた西洋人は猿真似だと笑い、ビゴーに風刺画にされ、日本文化を尊重する人々には理解されず、第二次世界大戦がはじまると「不経済の象徴」だと言われ取り壊しが決まる。

鹿鳴館は煌びやかな、明治時代の象徴だとばかり思っていたけど。実際調べてみるとそうではなかった。もし残っていたらどれだけの価値があったのか。残念。

谷口の思い「明治の価値ある建物を残せないのか」この意見が一致した四高(現金沢大学)の同窓生である土川元夫と、明治村を構想したわけで。

鹿鳴館が残っていたら、今、明治村はなかっただろうと思う。私の大好きな場所が。あのきれいなステンドグラスのザビエル天主堂も、ほんの一部しか残っていないけど川崎銀行も、ライト館も、西郷邸も、墨田川にかかっていた橋も、みんなみーんな取り壊されていたと思えば、鹿鳴館の無念(と思ってるかは分からないけど)も晴れるのかな。

そしてコンドルは多くの建築を残したけれど、一番の功績は鹿鳴館ではなく、大学で教えていた生徒こそが功績だと。若干25歳で日本政府に呼ばれ、日本人女性と結ばれ、日本の地に骨を埋めたコンドル。西洋化を目指していなければ、コンドルは日本に呼ばれることもなかったはず。歴史の面白さは、ひとつ道が違えば今とは違う歴史があったであろうと無数に想像ができること。過去に思いを馳せながら、楽しく鹿鳴館を学べました。



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