Cabinet of Curiosities 2023

クリスマス・コンサートといっても色々あるが、Cabinet of Curiositiesは今年末も刺激的なプロダクトを提供する。
2021年に発足したこのプロジェクトはゲーテ協会と日本音楽財団のバックアップの元に、現代音楽でも僅かばかり試みられる収益性をまるで考慮しないかの如く、現にいまヨーロッパ(特にドイツ)で聴かれている音楽を提供してくれる。そのスピードはドナウエッシンゲンのCDやSWR2の放送に次ぐほどで、そして作曲家がフィルターをかけて厳選するという点ではさらに重要性は高くなる。
小規模な(どちらかといえば専門家向けの)開催でなしに、今までに日本の一般向けのコンサートでこれほどの先端に触れ得たことはかつてないように思う。2022年のシャウシュピール連打の衝撃は今でも記憶に新しい。豆が提示された場合、その場で焼いて食べられるようライターだけは持ったが、今年は豆はなかった。No beans, but music.

今回のテーマは「伝統x革新️x四重奏」とのことで、昼公演の弦楽四重奏と夜のアドヴァンスド四重奏に分かれる。
クラシックの中で弦楽四重奏ほど過不足のない構成はヴァイオリンソナタくらいしか他に思いつかない。
そして伝統とは形式に過ぎないとでも言うかのように、今回提示された6曲はどれも古典的なシステムからは程遠いが、しかし弦楽の透明な響きのうちに普遍的な彩度や協調性のバランスを再び感じられる瞬間はとても楽しい。


[昼の部]
チヨコ・スラヴニクス『ディティールの傾き』はヴィジュアル・スコアによる作品とのことで、スコア自体も美術的な成果物として提供しているとのこと。
音色は武満徹の『コロナ』のように音程・強弱が連続的に変化する典型的な図形楽譜にも感じられるが、スコアはどちらかといえば線的に整理されたものであるらしい。
実際に音楽は均等な時間で区切られ、次に演奏されたイアノッタ氏の自作についての説明「一定の圧力と絶え間ない動きが時間の静寂を形作っているような、深海の環境のようなもの」がこの作品についても当てはまるように思う。弦楽四重奏ならではの線の透明感はあるが閉塞的な何かが感じられ、そしてエレクトロニクスの補足のような響きが動きつつも均質な渦に一筋の文学性を与えている。そのため、緩やかな推移が雲や羽化の科学的な観察のようであり、何が起こっているのかに注視する耳は常に緊張感に包まれる。一度だけ弾かれるピッチカートが印象的で、3楽章の中で徐々に釣り上げられる音程が最終的に低音に回帰した時に物語の結末を知ることになるが、そこで何が起こったのかは明瞭には言い表せない。時間の流れだけで言えばベートーヴェンの15番のあの美しい緩徐楽章を思い出す。非常に地味だが演奏の繊細さが作品の表現に直結するであろう開幕の怪作。

次のクララ・イアノッタ『ジャム瓶の中の死んだスズメバチ(ⅲ)』はスラヴニクス氏の作品にコンセプトは似ている気がするが、まず弦楽四重奏の音が出ないことに度肝を抜かれる。
「200%活用する」という表現は数学的にあり得ない、はずなのにこの作品のエレクトロニクスの活用は正しく200%である。弦楽四重奏のモジュレーションあるいはトランスレーションがスピーカーから放出され電子的な補足も加えられる。生楽器は駒にサイレンサーが置かれ全曲を通じてほとんど音が聞こえない。そのため生音4+電子変調4+電子1の九重奏の中で電子1が電子変調4の全てをエンハンスする役割で、かつ生音4は1/100に制限されていると考えれば、戯れに複素数で表すなら[4/100+4i]重奏のようなもので、実部がほとんどない虚数の音楽であると言える。
その奇怪なコンセプトの実現を目の当たりにすると、忙しなく動くボウとイマジナリに出力される音のギャップは一つ演劇的な装置であるようにも感じられる。実際の音がミクロな振幅で提示され、その解釈とでも言える電子の増幅は顕微鏡でスケールの異なる世界を覗いているかのようだ。確かに電子の瓶の中に世界がありシャウシュピールとしても面白い。

昼の部最終のレベッカ・サンダース『矢羽根』は打って変わって忙しい音楽だ。サンダース氏は前半の3人の中では一番有名だと思うが、これといって作曲全般の特徴というのが思い浮かばない。
トリル・グリサンド・クレッシェンドがコンマ秒で続け様に出現する状況は、チェロがある程度基盤的なものを与えてるとはいえ、時間の痙攣に大きなストーリーが消されているかのようだ。この曲を言葉で言い表すのは難しいが、イメージだけで考えるなら、悪魔たちがワルプレギスの夜で演奏するブライアン・ファーニホウの四重奏のモノマネとでもいうべきか。ステファン・マーンコップフのある種の作品のような硬質なイロニーが感じられるが、おそらく作曲者の意図には含まれていない。動きの中で動きの先の物語へ向かいたがる耳を常に瞬間の断片へ引き戻す強制力がそのような印象をいだかせるのだろう。最後に夜の時間が訪れ昼間の喧騒は無くなるが、もはや光に乏しく何かを見渡せるほど明晰ではない。


[夜の部]
開幕はエンノ・ポッペの『肉』。プログラムノートを見ていわゆる出オチでは、と先に笑いが出そうになったが、むしろ脱構築のお手本のような端正な作品。
イディオムの解体とは一言だが、ポッペはロックのイディオムをさらに細かく分解してそれとわかる要素のギリギリまで仕分けている耳の手作業感を感じられる。
エレキギターとドラムが鳴ればもはやロック、のような乱暴さだが、聴いていてそのような要素は確かに感じてしまう。組み立ては主題ならぬ手法提示の第1楽章から、こねこね発酵の第2楽章、再構築の第3楽章と、伝統的な3楽章制を擬似的に踏襲しつつもイディオムの分解とエネルギーを抽出しての再構築の物語に寄せることでその伝統性も同時に解体しようとしているように思える。一番の肝は第3楽章の長大なトゥッティともカデンツとも素直に言えない共時的な連鎖は、時々モーツァルトのような間を感じさせると同時に、pli slon pliのような計算されつくした音のミックスを思わせる。要するにロックを消してクラシックの語法に変換してしまったのではないか。ベリオやヘンツェがジャズやロック的なものを使ったのはあくまで借用であったように思う。イディオムの解体を行いつつも、リゲティのハンガリアン・ロックのようなロックの抽象化を行ったのだろうと思うが、最終的にロックの扱いがどうなったのかいまひとつわからない。イディオムがすでに広まった結果であると言う時間的な関係上、新しいイディオムと言うのは存在するのだろうか?どちらかといえば「ロック好きはザッパが嫌い」の格言をうっすらと思い出す。単にロックのエネルギーの部分を抽出して現代音楽として組み込んだというと、あっさりした結論にも聞こえるが、実際に聴こえるものは(ポッペ氏特有の)センスの力技でジェンガを高く積み上げる音楽でありその楽しさは間違いないと言える。
難しい話を置くなら、音色の観点では、サイボーグ化したブレーメンの音楽隊の最終決戦のような音楽である。

オリヴァー・サーリー『ヴェールにつつまれたままの』はタイトルが全てを語っているかのような作品だ。バルトークのピアノ協奏曲第2番の第2楽章の宇宙的な真空を地上に持ってきて、ケージの『4:33』とシェーファーの調律で仮想化したジェルヴァゾーニ箱に入れてスペクトラル街道の夜道を歩かせたようなイメージ。要するに漠として形容し難い音楽であり、3楽章構成のそれぞれは風景は異なるが静謐であり、安らぎと同時に不安を感じさせる。第2楽章のグラスハープのような音と電子的なノイズの瞬間は印象的に美しい。第1楽章は高原の風のようであり、第3楽章の夜はエアコンのモーター音が唸る都会の街路の裏道の夜であろうかと錯覚する。古い時代を感じさせるのは聴取に沿って、我々が内面的な記憶のスペクトラルへ入り込むからだろう。あるいは記憶そのものが倍音的な差異と調和のシステムを有しているのかもしれない。

最後を飾るマルコ・モミ『ほとんどどこにもない』は配置が絶妙だ。サーリー氏の作品がなければすっと聴けなかったかもしれない。『ヴェールにつつまれたもの』がついにその正体を現してしまったようだ。ASMRのような無機的な断片。出自のはっきりしない音は時間的に近くにあるからかろうじて脳がグルーピングを行ってまとまりに思えるだけだ。まさに音の徹底した現物主義。それぞれは完結した情報でしかない会話の断片から人となりを推定するような作業が行われる。数学的なモデルとしてはこれは多様体そのもの。断片にはそこだけのワンタイムな意味があり、それを一つの形態に向けて張り合わせてゆく、図形の成長の物語。やがて密度を上げてゆくため、音の人格あるいは図形の断片自体もより意味が補強され、全体像へ近づいてゆくかのように思える。しかしそれでもなお意味は小さなグループの中でだけ存在し、真の全体は捉えられない。ポスト歴史の中で、生きている現物(現存在)だけで木のように新たに一代限りの歴史を作り上げる。
他の何にも似ていない独創的な美しさがある。コズミックな響きと、同時性・瞬間の中での予感の到来は、かろうじてシュトックハウゼンを思い起こす。
曲の中でやがて音の出自はある程度わかってくるにせよ、四重奏というフレームは演奏者の人数でしか無くなっているように思う。


本公演では昼夜それぞれ演奏後にアフター・トークの時間が長めに設けられ、望月京・桑原ゆう両氏がゲストで登壇した。
四重奏とは、コンテクストとは、作曲とは何ぞやといった素朴にして過激な質問が観客から出て、少しコミカルながらも面白い展開があった。
技法的なモードの開拓が終わり、作曲家の音楽思想の提示に時代がシフトしてきたと言うのは望月氏の大局観でそのまま納得できるものだ。
そしてイディオムとコンテクストも似ているようで違うものであろうし、作曲家の個性が過去の技法で発揮できるように技術自体が枯れてきていることは今回のセレクションからも感じられる。
昼の部の図形楽譜・ライヴエレクトロニクス・極端な推移、夜の部のイディオム脱構築・聴取の内面化・解釈の拡散性。昼の部に技法を使いこなしての表現のあり方、夜の部のメタ音楽の作品への落とし込み。それぞれ20世紀の音楽が完成したことを21世紀が証言しているようにも見える。


[Date]
2023/12/23 14:00-15:30/19:00-20:30

[Location]
ドイツ文化会館

[Program]
昼公演-弦楽四重奏の現在-
 チヨコ・スラヴニクス(1967-) "ディティールの傾き(2005/06)"
 クララ・イアノッタ(1983-) "ジャム瓶の中の死んだスズメバチ(ⅲ)"(2017-18)
 レベッカ・サンダース(1967-) "矢羽根(2012)"

夜公演-新しい四重奏-
 エンノ・ポッペ(1969-) "肉(2017)"
 オリヴァー・サーリー(1988-) "ヴェールに包まれたままのもの(2015)"
 マルコ・モミ(1978-) "ほとんどどこにもない(2014)"

[演奏]
昼公演
 河村絢音 Vn
 對馬住佑 Vn
 中山加琳 Va
 北嶋愛季 Vc
 佐原洸 Electronics

夜公演
 大石将紀 sax
 神田住子 Perc.
 黒田亜樹 Pf
 山田岳 E.Gt
 有馬純寿 Electronics
 橋本晋哉 Cond

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