【小説】もうひとりの転校生 第15話
第15話
「前田さん。新人の頃の失敗談、話してくれましたよね。契約書を網棚に乗せてなくしたって」
「ああ」
昨日の夜、ちょうどこの場所で話した。彼女を元気づけようとして。
「今日、他の女子から聞いたんです。あの話、前田さんの話じゃなくて、同期の大島さんの話ですよね」
突然、本当の名を呼ばれてぎくりとした。瀬能はるかはそれに気づかず、首をかしげながら、
「おかしいと思ったんです。いくら新人の頃でも、前田さんがそんな失敗するなんて」
悪かったね。そんな失敗して。
「わたしのことを励ますために、他の人の失敗談を自分の話にしてくれたんですよね」
「いや……」
そこまで考えたわけじゃないんだけど。すっかりいい方に誤解されている。
「そんな困った顔しないで下さい」
頭を掻く俺に、彼女が笑った。
「奥ゆかしいんですね、前田さんって」
「いや、本当に何も考えてなかっただけで」
「自然にそういうことができるなんて、すごいです」
褒められても複雑な気分だ。悪い気はしないけど。
ふと彼女を見ると、じっと口を結びながらも、その目がなにかを伝えようとしている。
やばい。俺の直感がそう伝えている。この雰囲気は絶対にまずい。
「迷惑ですか」
「え。な、なにが」
早急に空気の入れ替えが必要だ。なにか別の話題を。
「えっと」
真っ直ぐな目をした瀬能はるかに射すくめられて、俺は完全に停止した。頭の中で鳴っていたはずの警戒警報は静まり返り、吸い込まれるように彼女を見つめ返す。彼女の唇が動いて次の言葉が出てくるのを、息を詰めて待っている。
「好きになっちゃダメですか」
構えていたはずだったのに、完全に心を打ち抜かれた。
彼女の動作一つ一つに目を凝らした。きゅっと力を込めた下瞼、瞬きでまつ毛が揺れる。顔を隠すように前髪に手をやり、思い切ったように結んでいた唇を開いた。
「今夜の打ち上げの後、二人だけで飲みませんか。東京へ戻る前に、前田さんともう少しだけ話がしたいです」
「瀬能さん……」
恥ずかしそうで、少し不安そうで、精いっぱいの勇気を奮うその顔が、これまでで一番きれいだと思った。
──ダメだ。
「ごめん……」
俺は目を瞑り、声を絞り出した。
「ごめん、俺……」
それ以上の言葉は出てこなかった。彼女は痛みから身を守るようにぎゅっと身体を小さくして、下を向いた。
静かな時間が流れる。ずっと遠くで扉が閉まるような音が響いた。
「ごめん……」
もう一度言った。それ以外の言葉が見つからない。
「やだ、謝らないで下さい」
ふいに彼女が場違いなほど明るい声を出した。
「もうこんな時間。みなさん待ってますよ。早く行きましょう」
潤んだ目をさっと俺から背けて、出口を指す。その背中に、そっと頭を下げた。
「ごめん……、俺、帰る」
彼女が驚いて俺を振り返った。
「帰るって……」
「ごめん、東京に帰る。今からなら、まだ今日中に帰れるから」
鞄を手にした。手にしていたスイムスーツをねじ込む。
「待ってください!」
彼女が叫びながら、俺の前に立ちはだかった。
「わたしのせいですか」
声が震えている。
「違うんだ。でもごめん。どうしても帰りたい」
とても顔を見られなかった。目を背ける。嗚咽が聞こえた。
「……わたしのこと、嫌いならそれでいいんです」
彼女が顔を覆って泣き出す。
「でも、打ち上げには出てもらえませんか。ここで前田さんに帰られてしまったら、わたし……」
そこで言葉を切り、彼女がしゃくりあげた。俺は彼女に手を伸ばしかけた手を止め、ぎゅっと強く握った。
嫌いなんかじゃない。
本当は抱きしめたい。せめて、涙を拭いてやりたい。そのくらいしてもいいだろうか。
いや、だめだ。触れたらきっと止まらなくなる。そうなったらきっと、俺はもう二度と元の姿には戻れなくなる。そんな気がした。
──いいんじゃないか。
頭の中で、そんな声が響いた。
──いいじゃないか、戻れなくても。
このまま、前田としての人生を送る。前田に成りすまして、瀬能はるかと付き合う。
彼女と親密な時間を過ごせたら、きっと幸せだろう。彼女のこと、もっと知りたい。
ふいに、家族の顔が浮かんだ。長女が生まれた日のことを思い出す。
出産を終えた妻の横で、生まれたての娘をこわごわ抱っこした。一般的な赤ちゃんのイメージと違って、本物の生まれたての赤ん坊は鳥の手羽先みたいに骨ばっていて、小さすぎて怖かった。けれどもしっかり呼吸して、ずっしりと命の重みがあった。
父親になった日。この子を命懸けで守ろうと思った。
それから長男。性別がわかった時から有頂天になった。将来は野球選手にするんだと、生まれてもいないのに野球帽を買ってきて、妻に呆れられた。
そして、妻。いつだって俺のわがままを聞いてくれて、一見すると大人しそうだけれど芯は強い。しっかり者で、俺を支えてくれる。
守っているつもりで、家族にはいつも守られてる。頼りない俺を、みんなが支えてくれてる。
家族を置き去りにして、どこにも行けない。いや、このままでは俺が家族に置きざりにされてしまう。今朝の夢のように、どんなに壁を叩いても、俺はもうそこへ戻れない。
帰らなくちゃ、今すぐ。
「ごめん……でも、どうしても帰りたいんだ」
彼女は涙を拭くと、濡れた指先で口元を抑えた。
「……わかりました」
彼女が頷いた。
「東京で……待ってる人がいるんですね」
俺はじっと下げていた頭を上げて、彼女に目をやる。
「行ってあげて下さい」
「ごめん」
「もう謝らないで下さい」
まつげが濡れたままの赤い目で、彼女が微笑む。包帯の白さより、頬のガーゼより、痛々しい笑顔だった。
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