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【短編小説】ニシヘヒガシヘ~夜行バスに乗って~第6話

   第6話

04:00 〇△サービスエリア(休憩20分)

「〇△サービスエリアに到着です」
 眠っている乗客たちのために、運転手が囁くように言った。駐車場に入ったバスがスピードを落とす。

 不意に誰かが立ち上がった。運転席へ向かって、足音も荒く駆け寄る。

「停まるな!」
 あたしは驚いて首を伸ばした。他にも、起きていた人たちが声のする方に顔を向けている。

「このまま出発しろ!」
 その声に聞き覚えがあった。まさか。
 背もたれにつかまりながら、動くバスの中でシートの上に立ち上がった。前方の視界が開ける。

 運転手の横に立っているのは、あのおじさんだった。出っ張ったお腹とツルツルの頭。太い眉に大きな目。手には拳銃のようなものを持っている。

「このまま駐車場を出て、高速へ戻れ!」
 起きていた人たちがざわつき始める。揺り起こされて眠そうな人も、血相を変えた周囲の顔を見て、たちまち目が覚めたようだった。

「……なにしてるんですか」
 運転席に近い席に座っていた年配の女性が、おそるおそる声をかけた。

「冗談……ですよね?」
 女性の言葉に、おじさんがぎょろりと目を剥いた。女性に銃口を向ける。
 悲鳴が起こった。女性は必死に両腕で頭を庇い、シートから転げ落ちた。

「動くな!」
 おじさんの鋭い声に、女性だけでなく車内の乗客たちがいっせいに静かになる。

 駐車場を出たバスがスピードを落とした。ウィンカーを出し、後方を確認する運転手がちらりとおじさんに目を向ける。その頭に、銃口が突きつけられた。乗客が息を呑む。

 加速車線を過ぎ、バスは再び高速道路の本線を走り始めた。

「この先の分岐点で、北関東方面へ行くんだ」
 下がりかけた銃身を両手で持ち直し、おじさんが言った。

 バスの中が再びざわめき出す。北関東? そんな囁きも聞こえる。え、あの銃って本物なの?

「まあまあ、落ち着いて下さい」
 ふいに男性の声がした。おじさんだけでなく乗客たちが一斉に振り返る。

 黒い不思議な帽子をかぶった、背の高い男性が後方の座席から運転席に向かって歩いていくところだった。細いブーツを履いた若い女性が慌てたように男性に手を伸ばしたが、届かずに空をつかんでいる。

「動くな!」
 おじさんが男性に銃口を向ける。

「はい、動きません」
 男性は両手を挙げ、ぴたりと足を止めた。

「要求を詳しく教えていただけますか。北関東のどちらへ向かえばよいのでしょう」
「栃木だ」
 銃口を運転手へ戻し、おじさんが男性に向かって顎をしゃくる。

「栃木のどちらへ」
「それは……近くなったらその時に言う」
「栃木に向かうだけでよいのですか。他に要求は」

 男性は落ち着いた口調で尋ねた。おじさんの方が困惑し、言葉に詰まっている。男性は穏やかに微笑んだ。

「金銭などはいらないのですか」

 目を瞠った。なに言ってんの、この人。

「持久戦になるかもしれませんし、食料や飲み物などは」

 え、まさかこの人も仲間? 
 そんな疑いのまなざしがバスの乗客から男性に注がれる。

「いらない」
 おじさんは首を横に振った。拳銃を持っていない方の腕で自分の額を拭う。

「それでは、あなたの希望はなんですか。ただ栃木に行きたいだけですか」

 男性の言葉に、あたしも落ち着きを取り戻してきた。そうよね、ただ栃木に行きたいだけで、なんでバスジャックよ。

「……奥さんと」
 え? 乗客たちの目がおじさんに降り注ぐ。じっと暗い目で床をにらんでいたおじさんが、

「奥さんと会いたい! 会って話がしたい!」
 大きな声で叫び出した。

「俺の奥さんと会わせろ!」

 奥さん? え、このおじさんの奥さん?

『うちの奥さんの作る料理はなんでも美味しいんですよね』
 って言ってた、あの奥さん?

『うちの奥さんにも食べさせてあげたいなぁ』
 って言ってた、あの奥さんだよね? どういうこと?

「奥さまはどうなさったのですか」
 男性が尋ねた。おじさんは肩で息をしながら、腕で額の汗を拭った。

「……出て行っちゃったんだよ」
 そう言って、おじさんが顔を歪ませる。一瞬、母親に置き去りにされた小さな子供のように見えた。

「離婚届に自分のサインだけして」
 目が真っ赤になっている。目だけじゃない。鼻もみるみる赤くなる。

「俺のわがままに疲れたって、置き手紙一枚残して」
 おじさん、もうこらえ切れなくなったように泣き出した。しかめ面が一気にくしゃくしゃになって、うわーん、うわーんって、子供みたい。

 隙だらけだし、通報するチャンスなんだけど、運転手も困ったようにおじさんを見てる。あたしたち乗客もそう。

 ねえ、おじさんの奥さん。

 会ったこともない知らない人に、あたしは心の中で話しかけた。

 なんで、黙って出て行ったりするの。このおじさんがどれだけわがままなことをしたのか、知らないけど。

 チャンスくらいあげてよ。注意したのかもしれないけどさ。何度言っても伝わらなかったのかもしれないけど、それでも。

 このおじさん、あなたのこと大好きで大好きで仕方がないんだよ。

『うちの奥さんにも食べさせてあげたいなぁ』

 そう言った時のおじさんの目には、愛おしさがあふれてた。

 こんなに泣いてる。かわいそうだよ。

 かわいそう。

 その言葉があたしの胸に刺さった。

 ああ、そうだったね。あたしも同じことしてたんだった。泣いているおじさんが、うちの夫に重なる。

 ごめん、夫。

 あたし、思い出したの。あんたがあたしにしてくれたプロポーズ。

『これからは、俺がお前を守る!』
 そう言ってくれた時、あたし笑い飛ばしたんだよね。

『なに言ってんの! 逆でしょ、逆!』
 そうだった。あたし最初から、お姫さまになりたいなんて思ってなかった。

 あんたという城を守る門番になって、もし敵がやってきたら真っ先に戦って、命をかけても倒す。
 それがあたしのプライドだった。あんたを守ってやれるのは、あたししかいないって。

 それなのに、あたしはこんなところで、一人でなにやってんだ。

「栃木は奥さまのご実家ですか」
 男性の声に、あたしは我に返った。いつの間にか男性はバスの前方に移動し、おじさんの横に立っている。

「……ああ」
 おじさんは涙を拭い、顔を上げた。

「それで、新宿行きのこのバスに乗って、東京から栃木に向かう予定だったのですね」
「……ああ」

「それなら、どうしてこのようなことになっているのでしょう。そもそも、その銃はあなたのものではありませんよね」
 男性はそう言ってこちらを振り返った。あたしは反射的に飛び上がり、身をすくめた。

「銃の持ち主は、あなたですよね」
 乗客の視線がいっせいにこちらへ注がれる。しかし男性はあたしの座るシートの真横まで来ると、そこで足を止め、後ろの席の青年の前に立ちはだかった。

 バスの乗客たちがみんな、立ち上がるか中腰の体勢で状況を見守っている中、青年はフードを目深にかぶったまま、じっと座っていた。顔はマスクで半分隠れており、どこを見ているのかもわからない。ただ、両手の指をせわしなく動かしている様子は、落ち着いてるようには見えなかった。

「あの銃はあなたが持ち込んだものですか」
 男性が重ねて尋ねた。青年はかすかに頷く。

「けれども、あのおじさんに見つかって、取り上げられたのですね」
 あたしは驚いて、青年と男性を交互に見比べた。近くに座る乗客同士が説明を求めるような目線を送り合うが、互いに首を振ることしかできない。

「あの銃で、どうするつもりだったんですか」
 青年はかすかになにか言いかけたが、あたしの耳には届かなかった。

「あのおじさんと同じように、バスジャックですか」
 男性の言葉に、肩をすくめた青年は、低い声で笑った。

「横光利一の『蝿』みたいに、バスごとみんなでどこかの崖から落ちちゃえばいいって思った」
 ぺらぺらっと早口で言うので、意味を理解するのに遅れた。男性だけが小さく息を吐いた。

「でもそれでは、あなたは『蝿』になれないじゃないですか」
 男性が穏やかに微笑む。

「他にも武器を持っていますか」
 青年はじっと黙っている。

「立ち上がり、そこに両手をついてあっちを向いて下さい」
 青年は大人しく従った。男性が武装解除をする。乗客の間で、緊迫した空気が緩むのがわかった。

 ブブッ。シートの上に投げ出されていたあたしのスマホが振動した。画面が点灯し、メッセージの通知と、本文の一部が表示される。

 あたしは駆け出した。運転席の横でだらりと肩を落としているおじさんの腕をつかみ、拳銃を取り上げる。

「次の出口で高速を下りて!」
 運転手に銃口を向けた。背後から、乗客たちが「えっ」と小さく叫ぶのが聞こえる。

「高速を反対方面に乗りかえて! あたし、帳面ノート町に帰る!」

『ごめんなさい。帰ってきてください』

 夫からのメッセージ。こっちこそごめん。

 同居が始まって、誰よりも疲れてるのはあんただった。

 あの時、いつもならすぐに風呂に向かうはずのあんたが、疲れた顔でソファに沈んでた。

 なんで気づいてあげられなかったんだろう。

『ごめんなさい。帰ってきてください』

 今どんな気持ちで、このメッセージを送ってるの。

 待ってて。あたし帰るから。今すぐ帰るから。

「帳面町に向かって! そうじゃないと本当に打つからね!」

 自分の叫び声に促されるように、引き金にかけた人差し指に力を込める。
 その時だった。おじさんがバターンと倒れた。乗客たちが驚いて目を瞠る。

 バターン。また大きな振動がした。振り返ると、あの青年が倒れている。

 え、どういうこと? まさか、死んだの?

 青年の上にかがみこみ、顔に手をかざしたり、首に指を添えていた男性がすっと立ち上がってあたしを振り返った。冷たい目でじっとこちらを見ている。

 男性がふとあたしから目を外すと、腰を折ってなにかに手を伸ばした。再び立ち上がった時に、手に銀色のなにかを持っていた。

「まさか……」
 男性が手にしていたのは、小ぶりのペットボトル型の缶コーヒーだった。あたしのドリンクホルダーに入っていたものだ。耳の横で振り、中身を確かめている。

 突然、くらっと頭が揺れた。気が遠くなる。
 まさか、あのコーヒーになにか。

「知らない人からものをもらっちゃいけません」

 ああ、やっぱりそうだよね。それが、最後にあたしの頭に浮かんだことだった。

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