【小説】もうひとりの転校生 第18話
第18話
白い。壁が白い。天井も、照明も白い。目の裏も、頭の中も真っ白だ。
「お前なあ……」
踊り場で仰向けにひっくり返ったまま指ひとつ動かせない俺に、同期が呆れたように息を吐いた。
「真面目にやってんのか」
その言葉にむっとしながらも、息が切れて返事が出来ない。呼吸するたびに口から、おかしな音が洩れる。
一体何度試したのか。数えきれないほどではないはずだが、落ちる時の恐怖で忘れてしまった。
「本気で戻りたいと思ってるよな」
言われて、一瞬だけ瀬能はるかの泣き顔が思い浮かんだ。慌ててかき消す。
「おまえ、こそ……」
苦しい息の中からそう言い返すと、同期もまたじっと黙り込んだ。おい、お前は誰のことを思い浮かべてるんだよ。まさか。
呼吸を整え、身体を起こした。重い足を踏み出し、その膝に手をかけながら起き上がる。
「なあ、これって、もしかすると、やっぱりあれかな……」
さっきふと頭によぎった考えが口をついて出た。スーツの埃を払っていた同期が振り返る。
「ひょっとして、俺もお前も、本当はあの時死んでたのかな……」
「は?」
同期が眉を曇らせた。
「ほら、そういう映画あるじゃんか。本当は俺たち死んでいて、でも自分ではそのことに気づいてないんだよ」
主人公は幽霊になり、心残りを果たしてから成仏する。確かそんなストーリーだった。
「俺が名古屋に出張したことも、今こうしているのも、俺たちが勝手に見ている夢なんじゃ──」
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ」
同期が鼻を鳴らした。こっちは真面目に言ってるのに。
「幽霊なんて非科学的なこと、俺は信じてない」
いや、そもそもこの状況、どう考えても非科学的だろ。
「あの時を再現するんだろ。それができてないんだよ」
同期が俺を指さした。
「衝撃が足りないんだよ。お前、何回やっても受け身取ってるだろ」
「わざとじゃないんだけどさ」
声が小さくなる。
「だって、怖いんだぜ、後ろ向きに落ちるのって」
後頭部を打ったらと思うと身がすくみ、つい半身を反らして手をついてしまう。
「怖いからこそ、一発で決めようぜ。何度も落ちるのはいやだ」
確かにそれには同感だった。同期が階段を上り、俺は反対に向かって降りていく。
「用意はいいか」
「ああ、行くぞ」
スタートを切った。勢いよく階段を駆け上がる。
さっきから何度も階段を転がっているせいで体中が痛い。そのせいか、身体から無駄な動きがなくなった。自然に手足が前に出る。あの時の感覚と似ていた。
踊り場をぐるりと巡り、後半の階段を駆け上がった。もうすぐフロアに着く。それなのに非常扉の陰か同期がら飛び出してくる気配がない。どうしたのか。
その瞬間、俺の脳裏に一つの記憶が蘇った。あと少し。そう思って気を抜いた俺は、駆け上がるスピードを緩めないまま腕時計に目をやった。自分の机に戻って、五分だけ昼寝する時間があるだろうかと。
同じように時計に目をやる。針は止まっていた。その瞬間、扉の陰から同期が飛び出してきた。同じように腕時計を見ている。
──ぶつかる───。
同期が目を瞠る。お互いに勢いを止められない。
衝撃が自分に跳ね返る。足は床を離れ、背中から放り出された。手が虚しく宙を掻く。
ああ、これは受け身すら取れそうにない。瞬きするほどの間に、そんなことを考えた。
──死ぬ。
その時だった。同じようにバランスを崩して倒れかかってくる同期が、手を伸ばした。
──違うよ、あの時は俺の方が掴んだんだ。
そう言う間もなく、俺たちはひと固まりになって転がった。眩しい光に目を瞑る。上も下もわからない。
どん、と背中に衝撃が走る。踊り場に叩きつけられていた。げほっと大きくむせると腕や足が跳ね、床にぶつかる音が響いた。
壁や天井がぐるぐる回る。視界がぼやけ、もう一度目を瞑った。呼吸を整えながら、腕で額の汗を拭う。
そっと目を開くと、ぼやけていた視界が焦点を結んだ。手首に嵌められている時計の文字盤が少しずつ見えてくる。
「おい!」
飛び起きた。俺の腕に収まっているのは、さっき交換したはずの妻にもらった俺の時計だった。しかも、針が動いている。
左手の薬指には指輪。見慣れた手のひら、自分のスーツ。間違いない。
「おい、起きろ!」
隣でひっくり返っている同期に声をかけながら、両手で自分の顔を撫でた。慣れた感触がする。
「おい……」
ふと目をやった。同期は目を瞑ったまま動かない。その肩に手をかけ、揺さぶった。
「おい、どうした」
言いかけて気づいた。後頭部から血が流れている。
「おい!」
頬を叩いた。しかし目は閉じられたままだ。
「嘘だろ、おい!」
慌てて同期の口元に手をやった。しかし、呼吸が感じられない。
スーツの胸を開き、耳を充てる。心音が聞こえた。
生きてる。
俺はほっと息をついた。しかし、同期は目を開こうとしない。後頭部の血はまだ流れ続けている。
「おい、しっかりしろ! 今、救急車を呼ぶから!」
俺は震える手でスマホを取り出し、非常電話の番号をタップした。
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