東京は己の足らざるを知る場所なのかもしれない

全知は幸福とイコールではない。無知が幸せなこともある。
学歴がなかろうが情報弱者であろうが、好きな人に囲まれて楽しく暮らせているのならそれは幸せと呼べるだろう。いわゆる田舎のヤンキーは幸福な刹那を生きているといえる。

自分は地方とはいえ県庁所在地に住んでいたから、田舎に住んでいるという実感はなかったが、さすがに東京は格が違った。

地元にいた頃は「すごいなあ」と思っているような人が、実際は現実に存在するということを知る。よくある「○○さんって人間だったんですね」という感覚を体感した。
そんな人でもちゃんと自分のことを認知してくれるもんなんだなと思って、悪く言うなら自惚れた。なんだか手が届きそうに思ったのだ。

オフ会とかにも行ったことがなかったので、ネットの世界は現実ではないエンターテインメントだと思っていた。そこにいる人は自分とは関わりがない、本の中の住民だ。だから自分とは比べないし傷つくこともない。
でも、現実と認めてしまうともう駄目で、自分に足りない点が嫌でも目に付くようになってしまう。矮小な世界で生きてきたことを突きつけられる。

今まで自信満々に生きてきたのは何だったのだろうと思う。自分でさえこれなのだから、自己肯定感の低い人には耳障りのいいマルチでさえ救いに見えるのだろう。そりゃあ流行るはずだよなと納得した。

東京は夢を叶える場所だ。
希望を胸に上京した人は、だからこそ周りに「当てられて」しまう。
辺りを見渡せば、誰も彼もキラキラしているように見える。自分を変えたい人にとっては、そんな中で自分を見失わずにいるのは難しい。

だからこそ、幸せの意味は履き違えないようにしなければならない。無知の幸せを捨てたのならば、数多ある中から自分の幸せを選ぶしかない。

他人がどうであろうと自分はこれでいいと思える信念を持つ。全てを手に入れるなんて到底不可能で、それを知らずに他人と比べて自分を貶しめるのは破滅への道なのだから。

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