教育者は五者たる前に哲学者であれ

「教師は五者たれ」という言葉があります。
五者というのは、「学者」「役者」「芸者」「医者」「易者」を指します(意味については各自調べてください)。

が、私は、その五者である以前に「哲学者」であることが最も大切だと思っています。


ここでは「教師」を「教育者」という言葉に置き換えて話を進めます。

私が思うに、教育の本質は主に「知識・知恵の伝導」と「思想の形成」にあります。

インターネットの発展によって、前者の重要性は薄くなってきたように思われます。知識だけなら脳内に記憶する必然性は薄くなりましたが、代わりに情報にアクセスする「検索力」だったり、情報を精査する「リテラシー」を身につけることが重要になってきました。これも決して一朝一夕で身につくものではなく、その前提となる知識や、今までとは違った能力というものはある程度教授されるべきです。
とはいえ、これに関してはテクノロジーの力で解決するアプローチが今後取られるようになっていくのだろうと思います。

まあこれはいいです。

重要なのが後者です。

私の経験上、教育者の思想は人間に反映されます。それは幼少期であればあるほど顕著で、しかし大人であっても少なからず影響を受けます。
学校現場ではよく「児童はだんだん担任に似てくる」と言われます。実際に私が(20ばかりではありますが)教室を見て感じたことでもあります。

時代や環境によって是とみなされるものは変わりますが、その中で教育者は「正しい」を定義しなければなりません。人はどうあるべきかを定義し、どのような行動を賞賛すべきかを決断するのです。

これが教えるということの本質ではないかと思うのです。決して機械では代替し得ない教育者の役割でもあります。

これを、「人に思想を押し付けるのは傲慢だ」と貶しますか?
でも、「人はそれぞれの個性を主張して生きるべきだ」ということすら価値観です。過去の制約に満ちた歴史に学ぶとき、自由主義の元でレールを作らなけらばならない息苦しさを感じている一定数を見たとき、あなたはそれでも信念を曲げずにいられるでしょうか?

自分が人の思想に影響を与える実感を得たとき、きっと一度は考え込むでしょう。もしもそれが自分の思惑と違ったら、もしも深く考えずに与えた価値観だとしたら、きっと恐怖するかもしれません。

そうなると、もう何が正しいのか、自分が何を信じているのかわからなくなります。自分の一挙手一投足が恐ろしくなり、すべてに意味を付ける世界が始まります。

だからこそ、その恐怖に負けない哲学を自分の中に確立する必要があるのです。

はじめは開き直りかもしれない。見て見ぬふりをしているだけかもしれない。それでも、自分の「正しさ」を追い求める。そうなるように人に働きかけ、人がそうなろうがそうなるまいが、変化を恐怖せず受け入れる。

この信念のない教育者は、決して教育者足りえません。五者たるというのは手段でしかないのです。
思想を伝達するのも技術です。それは、自分の哲学がぶれない限り、最初はうまくいかなくても洗練されていくものです。

そして、これも含めて私の哲学です。

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