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宗教の枠の外

国家が歌えませんの記事にたくさんの方が訪問してくださり、とても嬉しい半面あのワードだけでわかる人にはわかるんだなぁと少しびっくりしている。

小学校に入ってすぐ、運動会の時第1の関門があった。
そう、国歌斉唱と校歌斉唱。
そして国旗敬礼だ。

この宗教では偶像崇拝を認めておらず、国歌、校歌を歌うこと。
国旗敬礼をすることを禁じていた。
1年生といえば6歳、7歳になる歳。
子供を育てた方にはわかると思うがまだ幼さの残る幼児に近い。
そんな子供に先生に「国歌、校歌が歌えません。なぜならこういう宗教をしているからです。
宗教で禁じられている事は出来ません」と、伝えろと母親は言った。
「これは立派な証言活動になるよ」とどこか誇らしげに言う母の事が、嫌でしょうがなかった。
ただでさえ友達もできず、苦痛でしかない小学校でそんな事みんなの前で話したらどんな顔で見られるのか。
そんな事は幼い私にも痛いほどわかった。
周りとは違うという事がわかってきていたからだ。
でも母に逆らい、信仰を否定するほどの力は私にはなかった。

1年生の時の担任の先生は男で柔らかい雰囲気の先生だった。
偶然にも苗字がおなじだったその先生の机の前に行き、母に言われたように伝えた。
先生は一瞬目を丸くして、「わかったよ。」とだけ言ってくれたが後ろでクラスの子達がヒソヒソと話しているのが聞こえた。
あぁまた変な子だと思われた。
私は普通じゃない。
みんなと同じように運動会を楽しんだりは出来ないんだと身につまされた。

国旗敬礼は地獄だった。みんなが後ろを向いて国旗が上がっていくのを見守る中で、私だけ前を向いておくようにいわれた。
せめてみんなと同じように後ろを向きたかった。
「信仰をみんなの前でよく見える形で表してこそ、証言になるのよ」と訳の分からない理屈をニコニコと話す母がモンスターに見えた。

私にも子供がいるがそんな事絶対にさせられない。
やはり狂っていた。
みんなが後ろを向いて、自分の子だけが前を向いて立ち尽くすその姿を母は、写真に収めていた。
その写真を何年も経ってから見た時ゾッとした。
何にゾッとしたか、母がそれを心から望んでいて、誇らしく思っていたことがわかっていたから。
宗教とはそんな力がある。
洗脳とはまさにこの事だ。

今話題になっている統一協会の二世の人たちもきっと同じ気持ちだと思う。
自分だけじゃないんだ、やっぱりおかしい事なんだと声を上げ始めている。
なんであんな事件がおこらないとみんなわからないのだろう。
宗教の自由が許されている国だから?
子供にそれを強制する親がいるのに、それに苦しんでいる子供たちがいるのに。

そんな過去を誰にもいえず、人の目が気になり続ける、同級生になんて絶対に会いたくもない。
17歳の時偶然会った同級生に、昔変な宗教していたよね?と言われたこともある。
私がしていたんじゃない。
親がしていたんだ。私は親にさせられていたんだよ。
奉仕活動なんてしたくもない。
学校が終わったあと集会になんて行きたくもない。
集会中眠ってしまえば鞭で叩かれる。
学校では友達に馴染めない。
本当のことを話せる人もいない。
そんな中でずっと生きてきた。
やっと自由になれたと思っても傷は一生残る。
同じ二世の知り合いは子供の運動会の度に辛い思い出を思い出して、涙が止まらなくなると言っていた。

そんな小学生の1年目を過ごしたが、この時の担任の先生には驚かされることがある。
次はその話を書きたいと思う。
人間とは不思議な生き物だなぁと感じた話だ。

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