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桜の花びら。

毎週火曜日と木曜日は、陽子さんがやってくる日だ。

お母さんが家庭教師を連れてくる、と言った時、私は正直げんなりした。
まだ高校2年になったばかりだっていうのに、家庭教師なんてお願いする必要ないよ、と食い下がれば、「あんた期末テストの席次下がったでしょ。来年は受験生だっていうのに…」とお説教が始まり、頷くしかなかった。

それからだいたい1週間くらいして家に来たのは、うちから少し離れた場所にある有名私立大に通う女子大生だった。
大人っぽいけど可愛い人。
お母さんの紹介で、彼女が私の部屋に入って来たときの感想はそれだった。

髪は艶のある黒でショートボブ、目元はくりっとしていて可愛いらしさがあるけれど、全体的な雰囲気は落ち着いていた。
よろしくね、とにこやかに発された声も耳に心地よくて、あ、この人が教えてくれるなら頑張れるかも、とそれまで沈んでいた私の気分は180度方向転換した。


―――――

「あー、もう無理。無理。ほんと無理」
握っていたシャープペンシルを放り投げると、大きく伸びをして後ろに倒れる。
乱暴に放り投げたペンは転がり、私と陽子さんが並んで座るローテーブルの下へ転がり落ちていった。

頑張れるかも、と思ってやる気を出したのは最初だけだった。
夏休みから秋までの約3カ月間。それがお母さんが陽子さんと契約した期間だった。
それ以降は、大学で卒業論文というものを書く作業があるらしくて、「大学って入学するにも卒業するにも大変なんだな」と思った。

毎週火曜日と木曜日は、私の部屋で夏休みの課題や前期までの教科の復習をしている。
陽子さんが来る日は部屋のエアコンをつけても良いことになっているからラッキーだけど、そもそも継続して何かをすることに慣れていない私は、早くも2週間めで音を上げていた。

「もー、今さっきまで休憩していたばっかりでしょう」
陽子さんは怒ったようにそう言いながら、私が落としたペンを拾ってくれる。
拾うために俯いた拍子に、耳にかけていた髪の毛がはらりと頬にかかった。思わず、彼女の頬にかかった髪の毛に触れる。一瞬、馴れ馴れしくしすぎかなとも思ったけれど、拒否する素振りは見られなかったので安堵する。

「さっきから言おうと思ってたんだけど、陽子さん髪染めた?」
そう言うと、「あ、わかるー?就活も終わったから少し色入れ直したの」と言い、ショートボブの髪の毛先をつまんで見せた。
ダークブラウンの落ち着いた色は、陽子さんの大人っぽい雰囲気によく似合っている。

「きれーな色。陽子さんが内定もらったところって広告代理店だったっけ。いいなぁ、有名私立大は」
「大学名っていうか、就活結構頑張ったからね、私。早め早めに動くのが大事なのよ。就活も、受験も」

だからはい、逃げないで机に向かう、と手を取られ、拾いあげられたペンを握らされる。
一度手の中におさまったそれは、全く力が入らない握力のせいでまたノートの上に零れ落ちた。
こてん、と間抜けな音をさせて、ペンが転がる。

「…ちょっと」
「わぁぁ、怒らないで!私だって勉強しないとヤバいって分かってるんだから。あと怒られるとやる気なくす」
はぁ、今時の子は、と陽子さんが大きく溜息をつく。
その様子に少しムッとする。
高2の私と大学4年生の陽子さんだと、そこまで歳は離れていないはずだ。そう考えて、年齢の差を指折り数えてみる。
……5歳差か。思っていたより離れてるな。

「何してんの」
「あ、いや、なんでもないです」
「まあいいや。じゃあ教科変えよっか。確か夏休みの課題、小論文も出てるって言ってなかったっけ」
「うわっ頭から消してたよそれ。もうやだなぁ。やっぱ2年からの文理選択、理系コースを選択すればよかった」
「理系はあんまり小論文の授業ってないもんね。でも千春ちゃん、数学嫌いでしょ」
「嫌いっていうか、そこまで好きじゃないってだけかな。理系で情報系の大学とかいってさ、プログラミングとか覚えたらかっこよさそうじゃん?今っぽい感じ」

でも、数Ⅲまで取るのがダルいから文系にしたんだけどね、というと呆れた顔をされた。
「ミーハーだなぁ。何でもいいけど、あれも嫌だ、これも面倒、って逃げてばっかりいたら自分の選択肢を狭めちゃうよ。勉強でも部活でも、今目の前の事を死に物狂いで真剣に取り組まないと、1段上のステージにはいけないって私は思うけど。ほら、じゃあ小論文の課題見せて」

そう追い立てられ、しぶしぶ床に放り投げてあった学生鞄から、課題プリントと作文用紙を取り出す。
陽子さんの言う事はもっともだ。
そもそも期末テストの成績が落ちたのだって、中間テストの点数が思ったよりも良い結果だったから、「こんなもんか」と勉強しなくなったのが原因だ。
だから、頭では分かっている。

でも何だかやる気が出ないんだよなぁ。
どうしても勉強をしたくない思考がぐるぐるとして、目の前の課題とは違う事を考えてしまう。
そもそも、死に物狂いで勉強するような理由が、私にはないのが問題なのだ。私はなんで、勉強してるんだろう。
「ねぇねぇ、陽子さん」
「なぁに?またお喋り?」
「陽子さんって、彼氏いるの?」
聞いた途端、ぴたっと動きが止まった。
あれ、聞いちゃいけなかったかな。
「……付き合っていた人はいたけど、つい最近、別れたのよ」
「もしかして、地雷踏んだ?私…?ごめんなさい」
しまったと思い素直に謝る。
聞いた瞬間の陽子さんは、少し気まずそうだったから。

「いえ、いいのよ。もう終わったことだし」
「そっか…。ほんとごめんね」
「付き合いだした頃はすごく舞い上がってたんだけどね。私の大学の近くの川沿いって桜の木が沢山植えられてるんだけど、3月下旬になるとそこの桜が辺り一面満開になるの。それをふたりで見に行ったのが最初のデートだったんだよね」

まあ、もう終わったことだけど。
そう言って笑った陽子さんの表情を見て、陽子さんのなかではまだその人とのことは終わり切っていないんだな、と感じた。


―――――

「何でうちの学校は夏休みも夏期講習があるんだろう」
教室から教師が出て行った途端、机に突っ伏しながら弱音を吐く。
「それはうちがそこそこの進学校だからでしょ。っていうか、遅刻して途中から入って来たくせによく言うよ。1年の時も同じように夏期講習あったじゃん」
「わかってますぅー!私だってサボる気はないし、ちゃんと起きて最初から授業に出る気はあるんですぅー」
軟弱すぎ、とクラスメイトに笑われ、また机に突っ伏す。

諦めやすい。飽きっぽい。いいかげん。
全部自分の悪いところだってわかっている。
部活だって最初はテニス部に入っていたけど、練習がキツすぎて辞めた。
うちはそれなりの進学校だから、正直部活はそんなに力をいれていない。
それでも毎日の筋トレや地道な素振り、チームメンバー同士のミーティングとか、何だか色々と面倒だなぁ、と思い始めたら、自然と足が遠のいた。

勉強もそうだ。
ある程度やれば結果が出たから、受験の時だけ頑張ってこの高校に入ってみたけれど、頑張れたのはそこまでだった。
今の私には、特に日々の生活を頑張る理由がない。

「陽子さん、よくあんな頭いい大学にいけたよなぁ。……あ、良いこと思いついた」
「ん?何か言った?」
「いや、何でもない!」
「ふーん、あ、先生来たよ」
クラスメイトの言葉と同時に、次の科目の教師が教室のドアを開け入ってくる。背筋をピンと伸ばして座り直したものの、私の頭のなかは数日後の家庭教師が来る日の事でいっぱいだった。


―――――

「ご褒美?」
「そ、ご褒美。夏休みの終わりに1回、家庭教師期間の終わる10月頃にも1回、ちょうど小テストがあるの。それで各科目平均点70点以上とったら、ご褒美欲しいなって」
次の家庭教師の日、私は陽子さんにそう提案した。
勉強する理由がないなら、作ればいいや。
そう思って考えたのが、陽子さんからのご褒美だった。それでやる気が継続する自信はあまりないけれど、何も目標が無いよりはマシでしょう。

陽子さんは、ふむ、と指を口元にあてて考え込んでいる。
「どう…かな」
段々不安になって来た。ただでさえ、毎回の家庭教師の日に勉強に真面目に取り組まずに手を焼かせている自覚はある。
それなのに、ご褒美ちょうだい、だ。
甘えすぎかな、と今更ながら胸に不安が広がる。
でも、覆水盆に返らずだ。私は返事を待つしかない。

「うん…いいよ。ご褒美は何が欲しいの?高いものは厳しいけど」
「やったぁ!え?別に何か買って欲しいわけじゃないよ?」
「え、じゃあ何をして欲しいの?」
改めてそう言われると困ってしまう。取り敢えず、何をしてもらうかは陽子さんに任せることで話はまとまった。

ありがとう、と笑って陽子さんの服の裾をきゅっと掴む。
陽子さんは目を見開いて、「千春ちゃんって、意外とスキンシップ多いよね」と照れたように言って目を逸らした。


―――――

「私ってスキンシップ多いかな?」
翌日、前の席に座るクラスメイトにそう聞くと、「は?」と口を開けて怪訝な顔をされた。
「全く他人に興味なさそうなあんたが、何言ってんの」
「ひど…」
さすがに傷ついた。
傷ついたから、クラスメイトが座る椅子の背もたれを掴んで力任せにぐらぐら揺らしてやった。

「…お前ら、今が授業中だってこと、知ってるか?」
「「…はい」」
教師の低くドスの聞いた声が教室に響き、ふたりで同時に謝る。ただでさえ、遅刻と居眠りばかりで目を付けられているのに、まずいなー。
取り敢えず、陽子さんのご褒美がまっているのだ。
今この瞬間から、生まれ変わってみるか。
教室の窓の外を見ると、透き通った青空に大きな入道雲が広がっていた。
小テストまで、まだ猶予はある。


―――――

それからの私は、結構、勉強したと思う。
何となく、朝起きて、何となく、授業をちゃんと聞いて、何となく、家に帰ったら復習して。
一度サイクルが出来てしまえばなんてことなくて、むしろそのサイクルを崩すことの方が気持ち悪いと思うようになった。

そして、夏休みが終わり、家庭教師をお願いし始めて1回目の小テスト結果が返って来た。
蓋を開けてみると、私は英語、国語、数学の主要三科目の小テストで、80点以上を獲得していた。
ご褒美基準は余裕でクリアだ。

「…すごい」
私が見せた答案用紙を見て、陽子さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「偉いね」
そう言って、優しく頭を撫でてくれた陽子さんとの距離の近さに心臓が跳ねる。
ふわりと香る甘い香りに、くらくらと眩暈がした。

「じゃあ、ご褒美。はい」
私から体を離すと、陽子さんは鞄から高級菓子店のチョコレートを取り出して、渡してくれた。
チョコレートは大好きだけれど、さっきまで触れられていたところに、名残惜しさが残って気のない返事になってしまう。
「ありがとう」
「あれ、嬉しくない?」
「ううん、嬉しい。あのさ、嬉しいから、次、また良い点とったら、今と同じようにして欲しい」
陽子さんはきょとんとして、初めは私が何を言っているのか分からなかった様子だったけれど、そのうち「あぁ」と呟くと、また照れたように目を逸らした。
服の裾を軽く引っ張り、返事を催促すると、「…うん、いい…よ」とちいさな声で答えてくれた。


―――――

2回目の小テストでも、私は80点以上を獲得した。
ご褒美として頭を撫でてくれた陽子さんの手を取り、「陽子さん、ずっと家庭教師続けらんないの」と聞いた。
「駄目なんだ。さすがにそろそろ卒業論文があるからね」そう言って困ったように笑った顔には、他の感情も潜んでいるような気がして、掴んでいた陽子さんの手をぎゅっと握った。

そうして、私の家庭教師期間は予定通り終了した。


―――――

高校の卒業式も終わり暫くすると、どこにも所属していない宙ぶらりんな立場と、春から始まる大学生活への不安で、足元がふわふわとおぼつかなく感じる。
あれから1年とちょっとして、結局、私は陽子さんと同じ私立大学に入学が決まった。
4月からは陽子さんが卒業した学び舎で、私も同じように勉強することになる。
まあ、学部は違うのだけれど。

大学近くにある橋を通ると、川沿いに植えられた桜が一斉に咲いており、満開の様子を呈していた。
風が吹き抜け、花びらがぶわりと舞い上がる。

“私の大学の近くの川沿いって桜の木が植えられてるんだけど、3月下旬になるとそこの桜が辺り一面満開になるの”
陽子さんはそんなことを言ってたっけ。

家庭教師期間が終わった後も、暫くは彼女と連絡を取り合っていた。
卒業論文が忙しいのだとか、私は勉強が楽しくなってきたのだとか、ふたりでたわいもないメッセージのやり取りをした。
それが凄く、楽しかった。

“それをふたりで見に行ったのが最初のデートだったんだよね”
あの時の陽子さんの顔は、綺麗だったなぁ。
その人のことがまだ好きだったのか、単にその思い出に浸っていたからそんな表情になったのかは、私にはわからないけれど。

陽子さんはいつも私が「今は彼氏いないの?」とか「元彼さんとはどうだったの?」と聞くと、「…付き合っていた人とは」とか、「その時好きだった人とはね」と言い換えていた。

あー、会いたいなぁ。

橋の上から、流されていく桜の花びらに手を伸ばす。
必死に手を伸ばせば、死に物狂いで頑張れば、あの花びらに手は届くだろうか。

もちろん、実際には全然手なんて届かなくて、花びらはみるみるうちに遠くに流されて、見えなくなった。

会いたいなぁ。会いたいよ。
私、死に物狂いで勉強、頑張ったんだよ。

また頭を撫でてよ。それ以上は望まないからさ。

陽子さんが卒業し、就職すると、連絡はぷつりと途絶えた。
たぶん、またメッセージのひとつでも送れば、あの人のことだからちゃんと返事は返してくれるだろう。

私がメッセージを送る勇気がないんだ。
ふたりで勉強していたあの部屋のなかでは、怖いものなんてなかったのにさ。

カシャリ、と風に揺れる桜の木を写真に撮る。
メッセージアプリを立ち上げて、その画像を添付してみる。
送信ボタンを押す前に、画面を閉じた。

橋の向こうを、制服を着た女の子達が通り過ぎる。

ひとりでみる満開の桜は、やっぱり凄く綺麗で、寂しかった。

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