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集団への馴化が学校教育の目的なのか

年に何度か、「学校教育の目的は何か?」と学生さんたちに問う機会がある。

必ず出てくるし、むしろ結構な割合で出てくるのが「集団生活に慣れるため」という意見だ。「なぜ集団生活に慣れないといけないのか?」とさらに問うと、「集団に合わせることができないと困るから」「将来必要だから」「周りも迷惑するから」と、慈愛に満ちた目で、自信を持って答えてくれる。

これが、全員ではないにしても、教職課程を経て教員免許を取得し、教員採用試験を受けようとする学生さんたちの考えだとすると、そのように考えている現場の先生方もたくさんいるのかもしれないな、と邪推してしまう。

冒頭の問答の後、教育の目的を考えるための一つの手がかりとして、教育基本法の第一条を参照させる。そこには、極めて簡潔に、教育の目的は「人格の完成」と記されている。続けて「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」を育てることが記されている。この「人格の完成」や「資質」には、「集団生活に慣れる」が含まれているのだろうか。

もちろん、教育基本法の内容自体が望ましいものかを問い続ける視点も重要なのだけれど、「人格の完成」は、「集団生活に慣れる」という要素だけで構成されていると、少なくとも私は考えていないし、それを学校教育の現場で「目標」として設定することは望ましくない、と考えている。

※ちなみに改正前の教育基本法第一条は「個人の価値」という文言が明記されていましたが、改正後には消えてしまいました。だからといって、集団主義が教育の目的になったわけじゃないと思います。あしからず。「教育の目的」を実現するための、もう少し具体的な「教育の目標」については、第二条に書いてあります。

念頭にあるのは、2023年10月に滋賀県某市の某市長氏が、フリースクールに通うのは「子どものわがまま」であり、「フリースクールは国家の根幹を崩す」という趣旨の発言をし、その後撤回もせず、「問題提起をしている」と開き直っていることと根が同じではないか、という問題意識である。

不登校にも様々な理由があるが、学校での集団生活に不適応を起こしているケースは少なくない。発達障害の傾向が原因になる場合もあれば、無気力だったり、人間関係のトラブルだったりする。友人関係だけでなく、集団生活を重視(強要)する教師の言動が不登校の原因になる場合もある。

不登校の原因の全てが集団生活にあるとは思わないけれど、不登校になっていない全ての子どもたちが集団生活を好んでいるわけでもないと思う。嫌なこと辛いことをたくさん我慢して、自分を殺して、集団生活の中で、じっと息を潜めて生き残ろうとしている子どもたちも少なくないはずだ。そんな状態で「人格の完成」が成し遂げられるとは、私には到底思えない。

「集団生活は素晴らしい」「学び合い、協力、団結、切磋琢磨の中で成長する」「集団生活に慣れることも必要だ」という考えは否定しない。「支持的風土」という言葉もある。教師の専門性は、支持的風土の醸成と授業技術の2方向に発揮されるべきだ。過疎地の分校なりの課題はたくさんあるし、少子化に伴う統廃合で少人数学級が解消し、深刻なトラブルが大きく減少したケースもある。少人数や個別指導が絶対的に正しいわけではない。でもそれは、「絶対に集団生活を強いるべきだ」という結論には至らない。

教育の目的は人格の完成(人間としての成長)である。集団主義の強要でも集団への馴化でもない。フリースクール亡国論みたいなことを言っている人が減らないから、問題の本質を何も捉えられないままに、世界に誇る日本の学校制度がボロボロと足下から崩れてしまっているのだ。フリースクールを含めたオルタナティブスクールも公立学校も、子どもたちにとって、優れた育ちの場であって欲しいし、消去法ではなく、いずれも優れた選択肢であって欲しいと願っている。

※口汚く批判するなら、公立学校というハコに子どもたちを無理矢理放り込んで、公務員教師なる大人に学業も道徳も芸術も体育も福祉も防災も全部押しつけて、生き残ったタフで従順なヤツが国家社会に滅私奉公するのであるよ、という発想からは、いい加減脱却して欲しいと、強く願っている。

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