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愛の生い立ち(幼少期編)

こんにちは😊中島愛です。
「自分を愛する人を増やす」ために、
・骨格ボディメイクパーソナルトレーナー
・呑みどころ中島(母が営む居酒屋)
・子どもたちへの運動療育指導
をしています🌈


自分の本質と向き合い
中島愛として
不器用ながら真っ直ぐに生きる姿をお見せできればなと思います。

私の日常は過去記事よりどうぞ。
自分の経験が誰かのためになれたら嬉しいです


今回は愛の生い立ち、幼少期編。

かなり長いと思うので、さらっと見ながら、
ご自身の経験を振り返って考察する機会になって頂ければ幸いです。

生きてきた中で、心に残る出来事は何ですか?
具体的に、どのように心に残り
今の自分に現れている?

自分がつくられていくきっかけがあるかも。


私なりに考察してみたので、参考程度になればと思います。
では、語りちらします↓


○両親の年齢が自分をつくった

1996年11月20日 誕生

父が50歳、母が39歳で生まれた
物心ついた時には、おじいちゃんと孫に間違われてました。

いずれ両親は死んでしまう
物心ついた時からずっと私の中にある、最大の恐怖です。

両親がいなくなってしまったら…よくそんな想像をして泣いてました。なかなか特殊ですよね(笑)

その寂しさは、日々強まっていく。

おっちゃんからおじいちゃんのようになっていく父。おおらかな性格から頑固に、むしろ子どものよう。話は3回くらい言ってやっと会話が成立する。(耳が遠いというより聞こうとしてない笑)腕相撲も勝てるわけなかったのに、勝てちゃった。
終わりが一歩ずつ近づくことを嫌でも知らされる。こればっかりは受け入れたくない現実です。

そう感じられる家族がいることに感謝しています。

この背景から、私の中で時間はとても大切な価値観になった。今を全力で過ごしたい。(だらけたり、怠けたりする時間も含めてね笑、根はナマケモノです🦥)
家族とは、何気ない日常をできるだけ長く過ごしたいと思い、お店を手伝ったり、お父さんにお弁当作ったりしています。一緒にゴルフしたり、お酒を交わしたり、学生や社会人の時にはできてなかった何気ない毎日を過ごせることが幸せです。

今生きてる中で最大限ワガママ言えるのが両親。綺麗な部分だけじゃなく、素の自分で接していたいというのが私の想いです。いつもはちゃめちゃ娘を受け入れてくれてありがとう🙏

最近、死への恐怖に加えて、孤独になる恐怖があることに気付かされました。
一人っ子なので、両親が亡くなる=家族がいなくなる。表現しようのない、怖さ。大切にしたい・してくれる人が何人もいるのに、感じるひとりぼっち。

その感情から、家族が欲しい・結婚願望につながっていると思います。(感情をとっぱらったら、結婚したいと思っているのかな…?)
一人になることの恐れを抱えて人付き合いをしていて、猫を被ったり寂しいのに一人で大丈夫なしっかり者に見せたりしてしまいます。
それが裏目に出て、傷つくこともありました。これまであまり気が付かなかった(言語化できなかった)けど、気遣いを当たり前のように思ってたり、大切にしてもらえない経験もありました。

人を大切に、人のために生きることができるのは私の個性として誇りに思います。そのおかげで人の行動に興味を持ち、人の本質を見抜いたり、考察する力は鋭くなったと思う。ただ、誰にでも・無理にいい顔する必要はないし、人によって強弱はつけていてもいいのかなと感じています。自慢みたいにならないか?と気遣いを隠していたけど、わからない人には伝える時も必要だと思う。自分を守るために。

また、自分が伝えようとすることが全て伝わるというのは思い込みであり、自己本位だとも思う。でも、伝えようと行動するからこそわかることがある、伝えることで自分自身の感じ方は変わる。それでいいじゃないかと思う。

相手に過度な期待をしないし、自分にも期待しない。私にとっては難しいけど、等身大の私を理解していきながら、生きていきたいです。"ありのままで"というのは簡単にいえそうで、周りの声や理想像などで覆い被されているように思います。現実を見るのは怖いし。苦しさも伴うけど、どんどん中島愛を見つけていくごとに生きている感じがするから、やります。

これからは必要とする人に、ちゃんと見つめてくれる人に、届くといいなと思います。大切にするのを返すというより、ちゃんと見つめ合える関係性を構築していきたいです。


○習い事しまくった小学生

唯一父を感動で泣かせた舞妓はん、なワタシ


ピアノ、習字、日本舞踊、ダンス、社交ダンス、スイミング(一瞬でやめた)、学習塾、ポートボール、ボーカル…色々習わせてもらいました。

当時から両親は全ての選択を私に委ねてくれました。宿題をしなさいとか言われたことない。「あんたの好きにしい」がお母さんの口ぐせ。何も言わないのが父。

自分で物事を決める、自分の生き方に責任を持つ意識は強いと思う。先生が怖くて一瞬で辞めた習い事もあったけど、やると決めたことはコツコツと続けました。書道は10年くらい?小6で書いた作品がいいと先生が額に入れてくれた「大志」という言葉は今でもお店に飾っています。

○スナック育ち
呑むの大好き両親で(父母の出会いも呑み屋さん笑)小さい時からスナックによく連れられてました。どんな親や😂
スナックは子どもがいく所ではないので、嫌がる人もいたと思います。次第に"大人の顔色を伺う"を覚えていきました。大人ぶって強い自分でいようとするのも、人に迷惑をかけないように気遣いしすぎるのも、この日々が影響していると思います。
最初は歌えるし喜んで行ってたけど、思春期になるにつれて気遣うのが嫌、親についていくのも嫌になっていかなくなったな〜。

本当に色んな方に可愛がってもらいました。今でも自転車漕いでたら誰かしらに声をかけてもらいます。そういう繋がりは嬉しい。そして、接客にも生きていると思います。

その頃から歌うことが大好きで、ボーカルを習わせてもらったりステージに立ったりもしてました。歌手になりたかったです。今も音楽は心に刺さったり、誰かと一体となれたりする、私にとっての心が動く大切なものです💖

ギャルへの憧れもありました笑笑


○高学年から運動をしだす


ちゃんと習ったのは4年生からのダンス、5年生からのポートボール。
運動会でこけたりる、逆上がりは小6までできない、鈍臭い子でした。運動が嫌いというわけではないけど、ただただ鈍臭かった(笑)

ポートボールでチームワークを学びました。1年生から始めていた子も多かったので、ついていくのに必死でしたが先輩は優しかったし、より濃い友達・関係性ができていったと思います。

勝負になるとみんな真剣で、ただ仲良しだけではできません。大きな喧嘩をしたのも、悔し泣きしたのもポートボール。1つのミスで友達に嫌な顔されたり…黙っていられないので、言い返してたけど(笑)
(そう思うと、当時は結構意見をそのまま人にぶつけていたなと思います。)
良くも悪くも、濃い2年間で、何かに真剣に、苦しみながらも誰かと一緒に頑張る経験は貴重でした。

言い争い、グループに分かれてしまうこと…そういう世界は嫌でした。ポートボールしている子は中学校でバスケ部に入ることが多かったのですが、私の選択肢には入りませんでした。それから、個人スポーツの陸上競技にのめり込むことになります…


ということで、陸上競技の日々に入るここまでを幼少期編としました!

深ぼって、ちょい脱線もしながら
現在の自分に現れることまで触れてみました。

結構辛かったり寂しい悲しい思いもしていて、反するように自分は大丈夫だと人に見せてきたから、ここに記すことができて少しホッとしています。

当時の自分には、ずっと向き合ってきたからこそ人の感情を受け止められる人間になったよ。ほんまに辛かったと思うけど、これから自分も他人も幸せに近づけるきっかけになるはずだから、これからの私に任せとけ!!

と言ってあげたいです。小学生から水商売見てきてるのめっちゃいい経験やと思う、生きてんのか知らんけど(笑)

当時の自分も背負って、文字にしたり、コミュニケーションをとっていきたいと思います。

皆さんにも、皆さんの目にしか、感受性にしか映らなかった景色があると思います。辛く思い出したくないこともあると思いますが、いつかの幸せにしましょう。
時には覚悟を持って向き合うことになるけど、きっとそれが何かの道標になると信じます。一瞬一瞬を味わい、行動し、皆さんと共に、もっと自分らしく生きていけるように…ぼちぼちnoteも更新していきますね。

読んでくださった方、ありがとうございました!

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