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私は東京でしか泳げない

 〈どうして、この人が大きな態度をとれるんだろう〉

 目の前で言葉を垂れ流す人間に対して、そう言ってやりたくなった。

【移住した先に待ち受けていたもの】

 海水魚と淡水魚、生きていける水の質が異なるように、私にも泳ぎやすい水とそうでない水がはっきりと分かれていたらしい。それに気がついたのはほんのつい最近のことである。

 東京を出た私に待ち受けていたのは、〈嫌で嫌で仕方がなかったあの土地〉と同じ洗礼だった。ここでの私は、これまで確立してきた〈私〉でも、独立して生きている人間でもなく、誰かに従するだけの女に過ぎないのだなと、早くも一日目から悟ってしまった。
 どこに挨拶にいっても、誰と話しても私の名前が呼ばれることはない。皆が口にするのは隣に立っている男のこととその名前であった。元々隣の人間がこの土地に根差しているのもあるだろうが、それを差し引いてもこの空気感は独特で、新参者の私の存在が宙に浮くのを感じてしまう。当たり前のことではあるが、どこにも心強い味方なんて存在していないし、友達と気軽に会えるようで会うことができない距離であるのも明確な事実であった。
 そんな私ができることといえば、ただ隣に立って、自我を持った主張せずににこにこ笑って、〈何も問題を起こさないこと〉で、それがここで穏やかに過ごしていくために必要な術であった。

【酸素の薄いこの場所で】

 自分で選んだことなのだからと言い聞かせ、空いている隙間を埋めるように行動を積み重ねていく。仕事をし、家事をし、犬の散歩をしてもまだまだ隙間は埋まらない。何かをしていないと自分ではなくなるような気がして、身にならない読書をし、しまいには工程が多すぎるケーキを焼いてしまう始末だ。それでもこの広すぎる鳥籠の時間は一向に前へと進まず、酸素の濃度が薄くなっていくのを感じた。

 気が狂いそうだったし、実際どこか狂いはじめていたのかもしれない。私が放ったほんの些細な日常の火種は、一瞬にして大きくなり、平和を装っていた生活とその関係全てを焼き尽くした。互いが抱えるものを柔軟に受け止められるだけの心の余白が二人の間には存在していなかったし、その不安を無かったことにして「私は大丈夫だから気にしないで」と言うことはできなかった。そして何より〈あなたを支える完璧な彼女〉でいることを常に求められたところで、その望みを叶えられるほど器用な大人にもなりきれなかった。

 こんなにも急速に感情は冷えていくのか。何度味わっても人間との別れ際の心のざらつき、特に己の中で愛情が萎んでいく速さには慣れないままだ。つらつらと言葉を並べる人間を前にして、頭の中でどろどろとした思考が渦巻く。

〈大々的に発表したのを撤回するの面倒だな。大事な犬をまた振り回してしまった、東京に戻ったとして誰に預けよう。はやく次の家を探さないと。初期費用もっとかかるのか。きっとお金の負担はこれまでもこれからも私だけなんだろうな。そんなことよりも、今更過去の出来事を引っ張ってくるならもう少し早く言ってくれ。〉

 そんな感情に反して口から出てくるのは綺麗な言葉と形ばかりの涙。本当におかしな話だ。最後の最後まで「良い彼女」でいようとするのか私は。

【また東京に"帰ってきた"】

 気がついたときには、東京へと向かう新幹線の中だった。このままあの家にい続けたら、そのまま精神が朽ちていく気がして、どうしても一刻も早く逃げ出したかった。
 
 ただ正直な話、東京の家は既に引き払い、犬を抱えたまま長期で泊まれる場所も無かった。もちろん実家に戻ることなんてできない。そして何より意気揚々と出ていった手前、己が不甲斐なくて仕方がなかった。しかしながら、そんな私の置かれている全ての状況を見越していたかのように、大事な人たちが手を差し伸べ、背中を押してくれた。電話口で「有難う」と感謝を述べる私に対して、「いいから早く帰ってきて、一緒に美味しいご飯を食べよう」と言ってくれた友人たちのことを、この先もずっと忘れないだろう。
 
 新幹線の窓から外を眺めているとき、ふと冷蔵庫の中にいれたおいた作り置きのミネストローネを思い出した。置き去りにされ無意味なものとなっていくのならば、私がこの手で片づけてしまえばよかったと、物事の責任を果たさなかったことを後悔した。

 詰め込めるだけの荷物がはいったキャリーケースをゴロゴロと引きずって品川駅の構内を進んでいく。土曜の夜ではあるものの迎えにきた人間を見つけるのにそう時間はかからなかった。助手席に乗り、シートベルトを締めた瞬間にぽろぽろと涙を流す私に対して、膝の上に座っている犬が心配そうに頬につたう水滴を舐めようとしてくる。安心感とこれからの生活への不安が同時に押し寄せて、声にならない声でしゃくりあげる。運転席の人間はその状況に触れることなく、私の願い通り何も深く聞かずに目的地へと車を走らせてくれた。 

【ここでしか泳げない】

 蓋を開けてみるとたった5日間の生活だった。移住前に通った日数の方が長いのは皮肉な話だ。

 実質、二度目の上京といっても嘘ではない。ただ一度目と違うのは、「助けて」と声をあげればかけつけてくれて、「あなたなら大丈夫」と言ってくれる人間たちが大勢いるということ。家も決まっていないし、しばらくは私を構成している大事なものが散り散りになった状態で過ごさなければいけない。そんな状況でも「何となくどうにかなりそう」と悲観せずに過ごせるのは、紛れもなく彼らのおかげであった。

 きっと私のことだから今回の出来事に懲りることなく、また誰かを好きになるのだろう。昔から恋愛だけは目も当てられないようなトラブル続きで、最後に平穏な恋愛をしたのはいつだったかと考えてしまうほどだ。それでも毎回全身全霊で誰かを愛してしまうのはなぜだろうか。きっと自分以外の人間を深く信じていたい気持ちの現れなのかもしれないが、その答えを綴るのは長くなりそうなので、また今度にしようと思う。

 また人生の行先が変化した。こういうとき無性にわくわくするのだ。

ああ、早く新しい私に出会いたい。そう思いながら、新しい道を前に進んでいこうと思う。






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