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A・SA・YA・KE

 部下が半泣きで俺のところにやってきたのは終業時間の10分前だった。
「係長、やばいっす。俺、やっちまいました・・・」
おいおい、何だよ、いったい。その様子、マジ嫌な予感しかしないんですけど。
「え、どうした。何やらかした?」
まずは、平静を装って聞いてみる。
「実は、〇〇商事に提出する書類、すっかり忘れてまして。すみません!」
へぇ。で、それ、今言う? まぁ、忘れちまってたのはしょうがない。誰にだって失敗はあるから。さて、どうするか。
「で、それって、いつまでに出さなきゃなんないの?」
ちょっと懐大きめの上司風に余裕ある感じで聞いてみる。
「あの・・・ 今日中です」
「はぁ? 今日って。今何時だと思ってんだよ!」
「本当にすみません!」
ったく。〇〇商事と言えば我が社の「超」が付くほどの重要な得意先である。あそこの常務、うちの社長と大学の同期だって聞いたことがあったような、なかったような。とにかく、トラブりたくない相手であることには間違いはない。仕方ねぇなぁ。働き方改革とか何やらで、なるべく残業するなって結構うるさく言われるけど。でも、まぁ、二人でやればそれなりに早く終わらせることができるだろう。さっさと片付けるか。
「わかったよ。俺も手伝うからさ。で、どうすればいい?」
「あ、あの、それがですねぇ」
「ん?」
「実は今日、彼女のご両親が田舎から出てきてまして」
「へぇ。で?」
「今から一緒に食事する約束になってまして。あ、彼女のお父さんって、地元で結構大きな会社の社長さんでして、どうしても今日じゃなきゃ時間とれないってんで、やっと時間作ってもらったんですよ。だから、『今日はぜーったい、早く帰ってきてね』って彼女からキツく言われてまして。と言うわけで今日はどうしても定時で上がらせていただきたいんです」
え、ちょっと待って。ってことは、それってさぁ、あとは俺に全部やれってこと? 今から? 一人で? え、これってお前が忘れてたんだよな? はぁ、勘弁してくれよ。マジか。
「そうか。そういうことなら仕方ないな。わかった。あとは俺が全部やっとくから心配すんな」
はぁ、言っちゃったよ。全く、心にもないことを。本当は1ミリもそんなこと思ってないくせにさぁ。カッコつけちゃうんだよねぇ。馬鹿だなぁ、俺。
「ありがとうございます! じゃ、これ、宜しくお願いします!」
あら、結構な書類の量、あるじゃないの。これ、今から、俺一人でやるの。あー、本当に行っちゃうのね。そうだよね、まぁ、そうね、そうなるよね。

 部下がすっかり足取りも軽くなって俺の元を離れたのを確認してから、俺はポケットにスマホを忍ばせてこっそりと席を立ち廊下へ出た。急いで沙織に電話をかける。沙織はワンコールで電話に出た。
「あ、俺。あのさぁ、実は、今日、急に残業になっちゃってさ。あ、いや、わかってるって。それは、それはもちろんわかってるんだけどさ。いや、こっちもどうしても外せないっていうかさぁ。いやいや、もちろん約束は忘れたわけじゃないよ。え? あ、うん。いや、申し訳ない。本当にごめん。でも、さ、あの・・・」
ツー、ツー、ツー。切れた。電話も切れたけど、沙織もブチ切れてた。そして、この結果は電話する前に想像できてた。気を取り直して、取り敢えず、やるか。

 預かった資料を頭から念入りに読み込み、内容をまとめ上げ、パソコンで提出書類を作成し、とっくに帰宅して既に上機嫌で出来上がっている課長に電話をかけ、散々文句を言われてから決裁をもらい、メールで先方へと書類を提出し、それから週報を書いて。デスクの引き出しに入れておいた紙袋を鞄に詰め込み、急いで会社を出て電車に飛び乗ったのは午後11時を少し回ったところだった。終電にならなかったのだけは幸いだ。
 沙織のマンションの最寄り駅で電車を降り、すぐに電話をかけた。今度は15回くらいコールが鳴ってからやっと繋がった。
「ちょっとうるさいんだけど。何?」
「今、駅着いたから。これから向かうよ」
「いいよ、もう。今日はお疲れでしょう。さっさと帰ってとっとと寝たら」
「いや、今からそっち行くから。絶対行くから。待ってて」

 エレベーターを待ちきれず階段を駆け上がった。最初の方は勢いよかったが、このところ運動らしい運動はしていないせいか、6階に到着する頃には足が上がらなくなっていた。情けない。完全に運動不足だ。年のせいとは認めたくはない。
 沙織の部屋の前に立ち、しばらく息を整えてからインターホンを押す。部屋の明かりはついているが応答はない。もう一度押し、しばらく待ってみるがやはりドアの開く気配はない。
 合鍵を使ってドアを静かに開けた。
「沙織ちゃん、入るよ~」
沙織はリビングのソファーに寝転んで本を読んでいた。
「着いたよー」
全く無視。ちらりともこちらを見ない。
「ごめん。本当にごめん。申し訳ございませんでした!」
即効正座して額を床に擦りつけた。
「ねぇ、ちょっと、やめてくんない。そういう、いかにも『反省してまーす』みたいなアピール。かえってイラっとするんですけど。どうせ何とも思ってないくせにさ」
「いや、本当に悪いと思ってるって」
「嘘っぽいんだって」
相変わらず目すら合わせてくれない。
「機嫌直してさぁ。ねぇ、遅くなっちゃったけど何か食べに行こうよ。まだやってる店あるだろうし。ほら、まだ12時回ってないし」
「いいや。私、全然お腹空いてないし。一人で行ってきたよ、予約してたレストラン。キャンセルするのも、もったいないし。あー、おいしかった」
そ、一人で行ったんだ・・・
「そんなにお腹空いてるならさ、冷蔵庫にケーキ入ってるから食べなよ。お店で用意してくれたバースデーケーキ。すっごくおいしそうだったんだけど、お持ち帰りしてきちゃった。まぁ、男に約束すっぽかされた哀れでみじめな女がぽつんと一人、お店の人からハッピーバースデーなんて歌ってもらっちゃったりしたらさ、それはそれはもう、地獄ですからねぇ」
やっとこちらに向けてくれたその笑顔は、殺気を感じるほど冷たかった。合わせた視線は思わずこっちがそらした。
「あの、ビール、もらってよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 冷蔵庫を開けるとドアポケットにいつもの銘柄のビールが冷えていた。
「沙織さんも飲みます?」
「いらない」
「そうですか。では、いただきます」
350ml缶を一本取り出す。視線には存在感ありありで鎮座しているホールケーキが否応なく入ってくる。できるだけ見ないようにして急いでドアを閉めた。
 夕飯を食いそこなった空腹にいつもより炭酸が染み渡る。が、味はぜんぜんしなかった。
「ねぇ。明日、どうしよっか?」
無視。
「久しぶりに映画でも観に行く? 何やってたっけかなぁ。観たいのある?」
これまた無視。こうなってしまうとそう簡単には牙城は崩せない。
 いつしかテーブルには空になった缶が四つ転がっていた。あれから何を話しかけても沙織は無言のままだ。俺はとうとうアルコールの勢いに身を任せてしまった。
「おい、いい加減にしろよ。いつまでそんなんでいるつもりだよ」
「あ、出た。得意の『仕事なんだからしょうがないだろ』的なヤツ」
「だって、本当に仕事だったんだからしょうがないだろ。俺だってちゃんと早く帰ってくるつもりだったんだから。でもさ、俺の部下が困ってるのにそれを見捨てるわけにはいかないでしょ」
「私だってね、子供じゃないんだから『私と仕事、いったいどっちが大事?』なんてこと言うつもりはないわよ。でもさ、健介って仕事って言ったら何でも許されるって思ってるとこあるよね、絶対に」
「いや、そうは思ってねぇよ。ねぇけどさ、誰もやれないんだったら俺がやんなきゃいけない時だってあるじゃん。お前だってさ、仕事してるんだからそれくらい分かるだろ」
「わかってるけど、わかってるけど今日はどうしてもって時だって絶対あるじゃない。そのために私だって今日は朝から順序立てて早く帰れるようにしてきたんだから」
「そんなの、その時になってみなきゃわかんないだろ。それにさぁ、たかが誕生日一回くらいすっ飛ばしたくらいでいつまでもガキみたいにガタガタ言ってんじゃねぇよ!」
あ・・・ まずい。これは言い過ぎた。すぐ気づいた。でも、もう遅い。口から出てしまった言葉はもう取り消すことはできない。違うんだ。つい、勢いっていうか。本気でそんなこと、言うつもりはなかったんだ。
 沙織は黙った。そして、少しうつむいて寂しそうな顔をした。
「ごめん、そういうつもりじゃ・・・」
「いいよ、もう。私たちさ、少し距離置いた方がいいかもね」
「え、ちょっと待って。何でそうなるんだよ」
「少し一人にして」
「おい!」
沙織はコートを手にすると部屋を出て行った。

 財布は持って行ったがスマホは置いている。近所のコンビニにでも行ったのか。俺は一人、部屋で沙織の帰りを待った。10分、20分、30分。なかなか戻ってこない。異様に長い時間に感じた。アルコールはすでに吹っ飛んでいた。もう午前一時を回っている。ちょっと、遅くないか。こうなると嫌な予感しかしない。俺は上着も持たずに外に飛び出していた。
 近所のコンビニ、ファミレス、24時間営業の本屋、開いてる店を片っ端から覗いたが沙織の姿はなかった。公園、神社の境内、川っぺり、思いつくところを駆けずり回ったがどこにもいない。終電はもう終わっている。両隣の駅二つ分先まで足を延ばしてみたがそれでも見つからない。いったい、どこ行ったんだよ。
 走り回っているうちに、以前にも似たようなことがあったのを思い出した。付き合ってまだ一年ちょっとの頃。どういう理由だか覚えていないようなくだらないことで喧嘩して、あの時も沙織が部屋を飛び出してった。俺も意地張ってすぐには探しに行かなかったけど本当は心配で仕方なかった。その時、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきて、もしかしてって一気に不安になって、心臓がバクバクいい始めて。ヤバイ、沙織に何かあったら俺、生きていけないって。泣きそうになりながら町中を走り回った。探し出せなくて、疲れ果てて部屋に戻ったら、そしたら何食わぬ顔した沙織がいて
「どこ行っていたの? 肉まん買ってきたから一緒に食べよ」
って笑ってた。もう、怒るよりホッとして全身の力が抜けたよ。
 もしかしたらあの時みたいにもう部屋に戻ってニコニコ笑ってるかもしれない、そう思って一旦部屋にも戻ってみたが、いなかった。入れ違いになっているかもしれない。さっき探した場所をもう一回探してみたが、やっぱりいなかった。

 気づけば東の空が明るくなり始めていた。一晩中探し回ってさすがにくたくただった。マンションの前の公園のベンチに気力もすっかり尽き果てて脱力感満載で座っていると
「何やってんだ、こんなとこで」
不意打ち的に見舞われた沙織からのバックハグ。一瞬ビックリしたのと、数時間ぶりにやっと声を聞けたことへの安堵感、そして更にどっと溢れ出る疲労感。
「あー、お腹空いた。早く部屋戻って一緒に食べよ」
そして沙織の手にはコンビニの袋に入った肉まんが4個。って、また肉まんかよ。あんまんとかピザまんとかも他にも選択肢あるだろ。と思いながらも、いつもの沙織にちょっとうれしかった。
「どこ行ってんだよ、めちゃくちゃ心配したんだからな」
「ヒトカラ。もう、ガンガンに歌いまくって超スッキリしちゃった」
「どこのカラオケ?」
「××町の駅前の。行きはタクシーで行って、さっき始発で帰ってきた」
・・・3駅先かよ。
「本当に心配してくれた?」
「当たり前だろ」
「すっごい探してくれたんだ」
「すっごい探したよ。一晩中走り回った」
「どおりで。めちゃくちゃ汗臭いよ」
それ、言うか。だって、昨夜は飯も食ってねぇし、おまけに風呂にも入れなかったんだもん。
 少しゆっくりめに、二人並んで公園を歩いた。歩きながら沙織は俺の腕に絡まってきた。
「そんなにくっついたら臭うだろ」
俺なりにちょっと気を遣ったつもりだったけど、沙織はぎゅっと俺の腕を掴んできた。
「いいよ、私は別に気にしないけどね。でもさ、これからもっとおっさんになるでしょ。そうなった時に娘に『おじさん臭いから近寄らないでぇ!』なんて嫌われないように気をつけなよ、パパ」
「何だよ、それ」
ん? どういうこと?
 沙織は立ち止った。そして、顔の横でピースサインを作ってにっこりと笑った。
「もうすぐ4か月に入るところだって」
2じゃなくて、4? そして優しい手つきで愛おしそうに自分のお腹を撫でた。
「赤ちゃん、できたの?」
沙織は黙って大きく頷いた。
「パパが優柔不断でなっかなかプロポーズしてくれないから、きっとこの子、痺れ切らしちゃったんだよねぇ」
いや、俺だって昨夜はちゃんとさ、そういうつもりで準備してたわけだったわけで。あぁ、指輪、鞄の中だ。もう、タイミング・・・ 一刻も早く取りに戻りたい。
「ごめんね」
なぜ謝る?
「本当はさ、昨夜のデートの時にびっくりさせてやろうと思っててね。ずーっと、ああ言おうか、こう言おうかって何か一人で勝手に盛り上がってちゃってんだよね。こんなにドキドキしてたのに、なのにさ、突然ドタキャンされちゃったから、ついカーッとしちゃって。そんで勝手に怒っちゃって心配かけて。ほんと、ごめんね」
「いや、俺こそごめん。ほんと、悪かった。あの、じゃあさ、あれだよね。その、別れるとか、距離を置くとかってのは、結果なしってことでいいんだよね?」
「まぁ、しょうがないか。この子のためになかったことにしてあげるよ。ねぇ、それよりさ、そんな薄着で寒くない?」
あ、上着忘れてきたことを忘れてた。すっかり気温も下がり、全身の汗が乾いたせいで体温が持っていかれてる。そういえば、寒・・・
「あ、なんだか・・・ ヘックション!!!」
「ちょ、ちょっと、もう。風邪ひかないでよ。妊婦にうつさないでよね」

 部屋に戻るとまず熱いシャワーを浴びた。それから二人で少し冷めかかった肉まんを食べて、そのままの勢いで冷蔵庫で一晩寝かされた沙織のバースデーケーキを食べた。
「ちょっと。さすがに朝から食べ過ぎでしょ」
「いいじゃん、腹減ってんだし。何、お前、食わねぇの?」
「バーカ、食べるに決まってるでしょ。もともと私のケーキなんだからね」
 片づけを買って出てリビングに戻ると沙織がソファーで横になり無防備な体勢で寝息を立てていた。起こさないようにそっと抱えてベッドへと運ぶ。そして、その隣へと静かに潜り込んだ。柔らかい髪を撫でてから頬を撫でた。そして、唇に触れてからそっとキスをした。あんなに疲れていたはずなのに神経が高ぶっているせいなのか、どうも目が冴えて仕方なかった。
 先を越されてしまったが今夜こそきちんとプロポーズしよう。けど、何て言ったら沙織は喜んでくれるんだろう。このところ何日も、そんなことばかり考えているけど、どうもしっくりとした言葉が浮かんでこない。わかってはいたが、自分のボキャブラリーのなさを痛感している。もっと、本とか読んどきゃよかった。映画とか観てもっと研究しときゃよかったなぁ。ダサい台詞言ったりなんかしたら、この先ずーっといじられ続けるんだろうなぁ。あー、ハードル上がってくわぁ。
 そんなことを考えていたら、全く考えがまとまらないうちにいつの間にか寝落ちしてしまっていた。そして、二人で昼過ぎまで壮大に鼾をかきながら爆睡していた。


ー終ー

 
 

 

 

 

 
 
 

 


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