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女性差別と平等の意義

 18世紀から19世紀にかけての女性参政権について、女性は性別的な差別を受けていることが明らかとなった出来事ともいえるのではないかと思う。それはつまり、女性は男性と同じ土俵に立つことを世間から拒まれたのである。女性は感情的で、ヒステリーを起こすという点において、社会や政治に参加させるのは非効率的だと当時は考えられていた。これらは、不平等であるという意味で、差別であるとされてきた。
 しかし、同時期を舞台とした映画、タイタニック(1997)で、沈没するタイタニック号から脱出するためボートに乗り移るという場面で、「女・子ども」を優先的に救助するように促されるシーンがある。これについて私は、女性は不平等である反面、優先されるべき存在として扱われているのは、矛盾ではないかという意見を聞いた。
 しかしこの場面において、女性は”人”として優先されているのだろうか。レディーファーストや緊急時に女性が優先される行動規範は、女性を”人”としてではなく”モノ”として見ていることから生まれる考え方であると考える。女性は女性というだけで、不条理に神聖化された”モノ”として(つまりは男性とは違う存在として)軽視されている。女性は守るべき存在であるという固定観念は、女性の人生をというより、女性は弱く、1人では生きていけない存在であり、子どもを産む生産的なモノとして、また男性の男性としてのプライドや地位を世間に魅せしめるツールとして、利用されている。また、少なからずこのような点が起源なのではないかと考える。
 当時の女性の参政権に反対する男性の心理は、女性が自身の支配下におけない対象になり、制御不能になることの恐れからきているのだろう。そして、女性の反対者がいるのは、このような男性の支配下でいることに満足しているために、女性の自立を望まないのであろう。このような考え方を持っている女性は、自分から男性の所有物として、飼われる身として成り下がっているのである。
 つまり、女性の自立を望む人に対する相手は、男性だけではないのである。私自身、本来男性の都合のいいことに対して、それが女の幸福だと捉えたり、錯覚している場面があると感じる。他にも、男性の言葉に一喜一憂したり、あえて無知さや、不完全さを演じる女性がいることも、男女における不平等さを不平等として捉えさせない要因にもなっているのではないか。
  これらの観点から、本当の意味での平等は現代でさえ、男女関係なく人々の根底には存在さえしていないのである。


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