太宰の波
こどもの頃から、こういう無駄遣いをしがちだ。
新潮ショップにこんなものが売っていたので、即買いした。
こんなものを作られては堪らない。即買いするに決まっている。
「もうマグカップは一生買わなくていい」というぐらい家にいくつもあるのに、また買ってしまった。このマグで太宰コーヒーが飲みたい。
先日、太宰の『誰』を読みたくなり、バスの中でkindleで読んで吹き出しそうになった。とにかく笑える。そう、大人になってから読む太宰は常に抱腹絶倒なのだ。
中高生の頃は、深刻な心持で読んだりしていたのに、一体いつ頃から太宰が笑いのツボになったのだろう。とにかく太宰には笑わされる。
今までの人生で何度か、太宰の波が来た。その波にのまれると、しばらく太宰ばかり読むのだが、急に読まなくなる。が、またしばらくすると波が来る。
太宰治は非常に厄介な存在だ。
まず、いい大人が「太宰が好き」だなんて、気恥ずかしくて言えない。太宰を好きだと公言していいのは高校生までだろう。
だけど、その「恥ずかしい」ことすらうっすら嬉しく、「いい歳して太宰なんか好きだと言っちゃって。ククク。」みたいなことになってしまうのだ。
これは恥ずかしくも非常に太宰的であると同時に、またそこにこそばゆい歓びを感じ、無限の太宰ループにハマってしまう。
太宰地獄だ。ああ、恥ずかしい。
前に青森のお土産でいただいた「生まれてすみま煎餅」の裏に、確か太宰の研究者の方が書かれた文章が載っていて、それが非常にいい文章だったと記憶している。まさに、我が意を得たりというような内容だった。
その中に、人生にふと現れる太宰、みたいな表現があった。
十代の頃に読んだ太宰が、大人になってからふとまた現れる。これがまた、気恥ずかしいし、こそばゆい。
他にこんな気持ちにさせられる作家はいない。非常に厄介だ。
ただ、ここまで書いておいてなんだが、わたしは太宰が一番好きなわけではない。太宰のことを大嫌いだった三島由紀夫も大好きだし、太宰に「刺す」とまで言わせた川端康成も大好きだ。
もう一度言うが、わたしは太宰が一番好きなわけでは断じてない。
なのに、noteに太宰のことなんか書き散らしちゃって。ククク。
一方、梶井基次郎である。
檸檬キーホルダーも可愛い。これは2つ買った。
日曜の夜、手に取った梶井基次郎を眠いのを我慢して読んだら眠れなくなってしまった。大人になってから読む梶井基次郎は繊細で透明で清冽で、なんだか泣きたくなる。
梶井基次郎の純粋性は、自分も純粋だったこどもの頃には分からなかった。
文学少女から文学女になり、いつしか基次郎よりも太宰よりもずっと年上の文学中年と相成った訳だが、このままわたしは、文学老人への階段を昇り続けるのだろう。
この階段を登り切る頃も、また太宰を読んで笑うだろうか。
#太宰治 #梶井基次郎 #新潮文庫 #文学
#愛のお婆さん暮らし
#愛のお婆さんへの階段
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