夏の月

   高政から届いた文には、短く「今宵、裏山で待つ」とだけ書かれていた。首をひねり、その文字を何度か目でなぞる。何事かあったのだろうか。考えてみるも、わしには特に思い至る事柄もない。文を静かに懐にしまい、厨に立つ母上に声をかけた。稲葉山城へ出立する旨を告げると、まあ、と母上は目を丸くした。菜を茹でる鍋からもうもうと蒸気が上がっている。

  「待つ」と文に書かれていたが、夜半になっても高政は現れなかった。山寺へ続く石段の頂上に腰を下ろし、手持ち無沙汰でもう一度文を読む。今夜は満月で、辺りはやけに明るかった。6月に入り、日中は暑い日が続いているが夜はまだ涼しい。しかし風はどこか湿っぽく、ともすれば雨の匂いがした。風に吹かれ、さわさわと山木の葉が擦れる音が絶えず聞こえている。
   高政と会うのは、実は久しぶりだった。互いに身分が違う。かつては学友として毎日のように机を並べていたが、寺を出た後はそうもいかなかった。度々叔父上に伴われ稲葉山城に足を運んではいるが、殿はもちろん嫡男の高政に会うことも容易ではない。それでも高政のほうはわしを友と思い、折にふれて会話の機会を作ってくれた。わしにとっても歳の同じ高政と話すことは楽しく、待ち遠しいものだった。だからといって待たせられるのは気分のよいものではないが。

   ため息をつき、帰ろうか、あるいは稲葉山城まで足を運ぶかと立ち上がりかけた時だった。リン、と鈴の音が辺りに響いた。耳をすませると、音は徐々に大きくなってくる。石段を登るような足音に添うように、涼しげな音が揺れる。立って目を凝らした。月明かりを正面に浴びて、土色の素襖がはっきりと見える。むこうも人の気配を感じたのか顔を上げ、目を細めた。
「十兵衛か?」
   問われ、そうだと答えると、高政は手を上げた。満月を背にしたわしの顔は見えていなかったようだ。やがて高政は石段を登りきり、わしのそばに立った。
「久しいな。待たせて悪かった、城を抜け出すのに手間取ってしまった」
   見たところ、護衛は伴っていないようだ。あるいは石段の下で待たせているのか。自分が嫡男であるという意識が、高政には薄い時がある。わしのような者と親しく交わっているのも、そのせいかもしれない。
「近ごろ日根野がうるさくてな。どこへ行くにも護衛をつける」
「それは、そうだろう。そなたはこの国にとって大事な身なのだから」
   ふ、と高政が笑った。その感情は読めない。砂を払うように裾を払うと、大きく鈴が鳴る。高政の腰に赤い組紐でくくられた銀色の鈴を不思議に思って見ていると、彼は「獣避けだ」と言った。
「まぁ、獣は避けるかもしれないが、刺客にはわしの居場所を親切に教えてやっているようなものだな」
「それも日根野殿が?」
「母上だよ」
   高政は愉快そうに笑った。危険とわかってなおつけていることに、御母堂への愛情を感じる。いかに高政でも、家族は大切であろう。わしは自分の母を思い出していた。
「…あぁ、そうだ!高政、そなた飯は食べたか。母上が握り飯を持たせてくれたのだが、いるか」
「うん、貰おう。ちょうどよいことに、今日は酒もある」
   掲げられたひょうたんから水音がした。寺の縁に座り直すと、高政の懐から朱塗りの杯が2つ出てくる。その手際に思わず笑ってしまった。
「まさか、酒を飲むためにわしを呼んだのか?」
「せっかくの月見酒だ。ひとりではつまらないだろう」
   風流なことだ、と皮肉が出た。なにかあったのかと心配して待っていたのはなんだったのか。
   まずは握り飯を頬張る。母上が「いちおう高政様の分も」と多めに持たせてくれた。伝吾の作った瓜の漬物も添えてある。高政が躊躇わず口に運ぶのを見て、少し安堵した。互いに軽く近況を教え合う。そのうちふと、目線が下がった。
「…そういえば、なぜ素襖を着ている?政務でもあったのか」
「土岐頼芸様に謁見するためだ」
   ややうわの空気味に高政がつぶやく。土岐頼芸様といえば濃州太守、実質的には美濃の守護にあたる人物だ。
「なぜ頼芸様に?」
「先日、織田勢との小競り合いがあって…その時わしが軽く負傷したのだ。それを聞いた頼芸様が、傷に効く軟膏を届けてくださってな。その礼に参ったのだが」
   高政は首を傾げ、杯をあおった。
「結局御目通りは叶わなかった。直参することは伝えていたが、ずいぶん気分屋な方のようで…忙しいからと遠回しに追い返されてしまった。礼は受け取ってもらえたが、少しつまらぬな。父上が一緒であれば、違ったのかもしれんが」
   ずいぶん暗い口調だ。ひと通り説明を聞いて、言いたいことは山ほどあったが、まくし立てるのをぐっとこらえた。握り飯を置き、高政に向き直る。
「……怪我をしたのか?」
「…そこはどうでもよかろう」
「よいわけがない!どこだ!加減はどうなのだ!深いのか?見せてみよ!」
   肩を掴んで揺さぶりたかったが、万が一にもその肩を負傷していたらと思ってこらえる。高政はうっとおしそうに顔をそむけた。さらに詰め寄ると、はあぁ、とあからさまなため息が返ってくる。
「そんなに見たいのか?見てどうする?ほら……ここだ」
   高政は右手でするりと素襖の袷を開いて左肩まで割ると、月明かりに照らして見せた。武芸に励みついた筋肉を、日に焼けず顔よりやや白い皮膚が覆っている。鎖骨に近い肩口から胴にかけて白いさらしが巻かれていた。肩の部分には血が滲んで少し汚れている。その面積から、さほど大きな傷でないことはわかった。しかし場所が場所だ。あと少しずれていたら、心の臓ではないか。
「…矢傷か?」
「そうだ。少し油断していた」
「はあ?油断していた…?お主、自分の立場というものが…あぁ、くそ……傷は痛まないのか?」
「痛いに決まっているだろう」
   思わず高政の両腕を掴み、うなだれてしまう。その身を大切にしてほしい。わしの願いはいつも高政には届かない。武勇に優れて若さと度胸もある。冷静な性格ではあるが、戦となれば本陣を父に任せ先陣を切ってゆきそうな高政を見ていると、いつも肝が潰れる思いだ。上に立つ者が勇敢なのも考えものだと思う。少し臆病なくらいがちょうどいいのかもしれない。わしが死ぬのと高政が死ぬのとでは価値が違うのだ。
「十兵衛」
   こうべを垂れて言葉にならない言葉を呻いていると、頭上からくつくつ笑う声がした。顔を上げると、高政がめずらしく困ったように笑っていた。
「そろそろ離れろ。誤解されるぞ」
   その言葉に少し冷静になる。たしかに…着物を乱した高政の腕を押さえつけ、あらわな胸元に顔を寄せているこの状況。なにも知らぬ者が見たらなんと思われるだろう。急に顔が熱くなった。意識すると、嗅ぎ慣れた高政の香の匂いが強く香る。あわてて手を引っ込め、距離を取った。その様子に高政が楽しげに大きく笑う。
「す…すまん……、高政」
「いや…心配してくれたのは嬉しい。次はもっとよく見せてやろう」
   次などない!、と咄嗟に叫ぶわしに、高政はそれは残念だと破顔した。白い肌が再び素襖の中にしまわれ、また鈴が鳴って、風に流れた。
「わしにはわからない」
   改めて杯に酒を注ぎ、高政は消え入るような声で言った。
「父上とは、国の治め方も戦のやり方も、なにもかも考えが合わない気がする。それでいて、なにを上申しても取り合ってくれぬし、なぜ駄目なのかも教えてはくれぬ。察することのできないわしが悪いのか?かといって、父上のやることが全て正しいとは到底思えぬのだ」
「……そうか」
「父というものは、すべからくこうなのだろうか」
   その問いには答えられなかった。わしは父上を早くに亡くし、問答をしたことも意見を違えたこともない。あるのは断片的な記憶と、まだ幼かったわしに向けられた優しげな笑顔だけだ。
「…わしにもわからぬ。だが、いずれそなたにもわかる時がくるのだろう。殿にいかなお考えがあれど、ゆくゆく家督はそなたに譲られるのだ。どんな親であれ、我が子がかわいくないはずはない」
「……そうだとよいがな」
   それ以上の言葉は出ていかなかった。不用意に高政の悩みに踏み込む勇気が、今のわしにはない。
   殿の考えも父の考えも、若い自分たちには想像すら遠くおよばぬところにあるように思えた。高政はこれから嫡男としての苦悩、家督を継げば守護代としての辛苦を味わっていくことになる。無論苦しみばかりではないだろうが、安らぎの少ない日々だ。それは殿を見ていればわかる。だからせめて今一時だけの自由を、存分に謳歌する他ない。
   ぼんやりと月を見上げる高政を見て、わしは嫌な焦燥感にかられた。わしにできることはあるだろうか、そう考えずにはいられないのだ。この先高政が苦しんでいる時に、側に寄り添うことができるだろうか。家臣としてだけでなく、時には友として……
「…まずい」
   突然高政が立ち上がり、わしはハッとした。日根野だ、と言う。耳をすますと、誰かの声が遠くからするようだ。よくよく聞けば、それは確かに、高政を探し呼ばわる声だった。
「そなた…まさか本当に護衛もつけずこっそり抜け出してきたのか…?」
「悪いか」
「わ、悪いに決まっているだろう!危険だ!それにわしまで責任を問われるではないか!」
   そんなことになったら母上や叔父上に迷惑をかけてしまう。睨みつけると高政は考え込むように唸りを上げた。
「…わしの文は持ってきたか」
「あ?あぁ…」
「それがあればそなたが責を問われることはあるまい。日根野も日根野だ。どうせ父上に知られぬよう内密に済ますだろう」
「いや…しかし……」
「よいか、十兵衛」
   高政は2つの杯で空を切り、酒を払うと懐に戻した。それからまだ酒の入ったひょうたんをわしに渡した。
「その中身は水だ。そなたはわしに呼ばれ、ここで若者同士、酒も飲まず真剣に未来の話をしていただけだ。わかるな」
   話を合わせろということか。大筋では間違いでもない…が、日根野殿としては手傷を負った若殿が夜間にひとりでふらついて、ましてや外で酒を飲んでいたとあってはたまったものではないだろう。今日に限っては正直に言ってわざわざ事を荒立てても利はない。渋々とうなずくしかなかった。
「十兵衛。こんな時間だ、今日は城に泊まっていくだろう?戻って飲み直そう」
「……はじめから城に招待してくれればよかったのではないか?」
「ここのほうが月が美しく見える」
   ぽつりとつぶやき、高政は微笑んだ。石段を休み休み駆け上がってくる足音に、ここだ、と叫ぶ。わしは空を見上げ、息をついた。木々の縁取る夜空に、白い月が煌々と浮かんでいる。風に揺れ、高政の鈴が涼やかに響いていた。
「まあ……確かに、きれいだな」
   よろよろと石段を登りきり、今にも泣き出しそうな顔で息をつくあわれな家老に苦笑を投げる。高政が悪びれもせず手を振って迎えた。


   夏の月は儚いというが、今宵は今しばらく輝きを放ってくれそうだ。


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