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あぁ毎日めんどくさい(※はじまり)

幼稚園生だった当時は「面倒」という単語を適切に理解していなかっただろう。
しかし、毎日が退屈で面倒だと強く感じた瞬間
衝撃を受けたことを覚えている。

なぜなら幼稚園にあるお遊戯室で、おやつの時間の後腹ごなし運動をしている最中だったのだから。
頭の上でチューリップ〜♪と笑顔で手をかざしながら、「あぁ毎日退屈、めんどくさい」と湧いて出てきたのだ。

家と幼稚園と、日常を整えるためにほんの少し出歩く場所が私の知っている世界。
生活のリズムを整えるという名目で、毎日同じことを要求してくる人々。
何のためにこの人たちは生きているのだろうか。
なぜ私はこの人たちの言うことを聞くように教えられているのだろうか。
疑問をぶつけても子供だからと言って取り合ってはもらえない。
意に反する内容にNOと選択をすると、長期に渡り周りがざわつく。
「不自由だ」
この小さな肉体が、この経済力のなさが、この何もできない状態が、この置かれた環境から脱する知識がないことが不自由だ。

身動きが取れない状態だと思ってしまった私に
真っ黒いエネルギーが重力を持って押し潰すようにまとわりついてきた。
潰される。
重い。
不快だ。
そんなふうに感じ、私以外の人々と関わることが嫌になった。

とはいえまだまだ社会的に幼く、生活のほとんどに介助が必要な状態。
最善策は何か考えた。
自分以外の人々の顔色から今していることが合っているのか確認して、少しでも相手が心地良くなるようなポジションに収まるように最善を尽くす。
自分の中にあるwinを叶えるために言葉と態度を尽くして、相手の意見を変えさせるということが可能だと知った時は、ちょっとばかり扱いづらい子どもというのを自分なりに極めたこともある。

楽しいという感覚を持てる時間もある
気持ちいいものを触っている時
好きな音楽を聴いている時
好きな色を見ている時
好きな絵本を見ている時
全体を通して何かに没頭している時は騒音が消え、静かな時間が楽しめる大好きな時間だった。
それ以外は家でも幼稚園でもどこでも、多くの人が自分の周りにいてうるさかった。

面倒、不自由、不快感、これらをたくさん感じ始めた幼稚園生。
私以外の全ての人たちが一気に観察対象者に変わったのもこの時期。
私自身に興味がなくなったのもこの時期。
何をしたらどうなるのか、何をどう感じるのか、40年弱かけて体を張った実験と観察と情報収集が始まった。

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