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笑わない顔を見せるほうが、裸を見せるより恥ずかしくなった 〜naked撮影をしてみた③〜

「いつもニコニコ笑顔だよね」

誰かにそう言われるたびに、私はいつもドキッとします。もちろん、心から笑っていること、楽しんで笑顔でいることもたくさんありますが、いつの頃からか笑っていることがクセになって、心の中の感情とは無関係に、いや、時にはそれを否定するかのように、笑ってしまうことも少なくなく…。

私の母はいつも笑顔で人に接する人でした。そこまで笑わなくてもいいのに...と、ときどき恥ずかしくなるくらい、満面の笑顔でいる人でした。でも家族の問題で鬱状態なってからは、笑顔はなくなり、むしろ、口角が思いっきり下がった表情ばかりになりました。時折笑う時も、無理して笑っているように思えたり...。

本当のところは彼女自身にしかわからないですが、私には、「いつも笑顔」の時代に押し殺していたマイナスの感情が、膨らみに膨らんで噴出したように思えました。だから、同じように自分が、笑顔でごまかしつづけていたら、いつかどこかで破綻するような気がして、怖くなるのです。

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"素"の自分=happyではなかった

「”解放”がテーマであれば、ポーズは開いた感じになるかな」

撮影者であるTsさんに言われて、湧いてきた答えは"No"でした。いろんなものを取り払った"素"の自分をイメージした時、そこにあるのは「喜び」だけではなかったからです。むしろ自分の奥底には、怒りや悲しみ、孤独や弱さが詰まっている。でもそうしたものを纏った、細いけど確かな「強さ」もある。その両方が内包されている感じが、"naked"になったときの自分らしさな気がする…と。

ということで、撮影中は「笑顔禁止」になったのですが(笑)、カメラを向けられたらなおさら笑うことしか普段していないので、「笑わない」ことは、「脱ぐこと」と同じくらい、最初葛藤しました。。。

撮影中に、ときどき撮った写真を見せてもらった時も、裸の自分には次第に慣れていった(笑)一方で、自分でも見たことがない素の表情を見ることはむしろ、どんどん恥ずかしくなっていきました。それは、人に見せるのを躊躇ってきた、そして、自分で見つめることさえも避けてきた自分の内側を、目の当たりにするような感覚だったからです。

同時に、いろんなポーズをしてみたなかで、一番安心したのは体育座りをしている時。膝を抱えてぎゅっと自分を抱え込むような体育座りも、"自分を守る"ような体勢なので、これがひとつの”自分らしさ”なのかなと思いました。

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「他者を通した自分」以外の自分を表現したいと思った

今回のnaked撮影の3つ目のコンセプト「他者の意識からの解放」には、ひとつには、こうした「他者の視線を気にして隠してしまう自分」を取り払いたいという思いがありました。そしてもうひとつ、このコンセプトに込めた想いがあります。それは「他者の意識に依存しない自分」です。

2018年の誕生日、私のことをよく知るファミリーのように大事な人から、こんなメッセージをもらいました。

「誰かに共感したり、感動したりするのも大切だけど、自分の人生も大切にしてください。誰かのために何かできるのは、自分を本当に大切にできている人だけだと思います。そうでないと、自分の弱さを満たしてくれるものを、人や社会の中に求めてしまう」

私はここ何年か、映画の宣伝をしたり、レビューを書いたり、本の書評をまとめたり、誰かにインタビューをして記事を作ったり、イベントの司会進行をしたり、、、してきたのですが、それはいわば、誰かの感情を自分の内側に取り入れて、自分の心をそこに重ね、そこで感じたことを自分の言葉で表現をする作業の連続でした。そのプロセスは、ある種の快感で、わりと得意なことでもあると思っています。

でも、それはどこまでいっても「誰かを通した表現」。上記のメッセージをもらって、自分のオリジナルな感情はどこにあるだろうと振り返った時に、うまく掴みとれない感覚がありました。

「他者を介する」姿勢は、2018年にフリーランスになった自分の働き方にもあったような気がします。誰かに求められて、必要とされて、それに応えるように仕事をしていって…。それはもちろん、やりたかったことだから引き受けて、やってよかったと心から思っています。でも、「誰かの仕事に専念する自分」を言い訳にして、他に立てていた自分自身の目標のために、力と時間を割かないまま過ごしてしまったのです。

「誰かのためにやっている」のは、いわば"美談"として語れるし、一方で、最終的な責任から免れることもできます。でも自分自身のことは、自分ですべてを負わないといけない。そのことから逃げていたように気がするのです。

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「撮った写真はSNSでアップするの?」

撮影前にTsさんに聞かれた時は、「うーん、分からない。撮ってみてからの感覚によるかな。まだ想像がつかない…」と答えていたのですが、こうして今回、写真の一部をアップするのみならず、その背景のストーリーまで(長文で(笑))書き綴っているのは、「誰かを介したのではない、自分自身の表現」の一つになるような気がしたから、というのが大きいです。

Tsさんだけでなく、より多くの「他者の目線」に自分を晒してみること、誰かの表現を隠れ蓑にせずに、自分そのままで表現すること。それをやってみたいし、これからもやっていきたい。naked撮影を通じて、そう強く思っている自分がいます。

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まだまだ言語化しきれないくらい、すごく大切で、いい経験を出来たnaked撮影。

人生に一度はやってみたらいかがですか?

…と勧めたくなる気持ちもある一方で、何よりも、撮影してくれる人と、ちゃんと信頼関係ができていることはものすごく大切だと思っています。

そうでないと、せっかく脱いで撮ってもらっても、自分がしたかった表現とズレが生じてしまうかもしれない、というのがひとつ。(Tsさんとは長年のご縁&これまでに自分のセクシュアリティの話や家族の話など、深く話をしてきたからこそ、引き出してもらえたと思っています。)

もう一つはやはり、いろんな「リスク」もあるからです。今回、Tsさんを信頼しすぎて、私は全然考えていなかったのですが(汗)、Tsさんのほうがちゃんと考えて、専用のSDカードを用意して、撮ったデータはそのまま私にすべて渡してくれました。一般的には撮影となると、撮ったデータをカメラマンさんのパソコンに取り込んで、加工して、、、というプロセスが入ると思いますが、そうするとその人の手元にもデータが残るので、最悪の場合、それがどこかに漏洩するということも…。

この先チャレンジしてみる方は、できうるかぎりのリスク回避をしてぜひ臨んでみてください!

最後の最後に、Tsさんへの心からの感謝を込めて、このnoteを締めたいと思います。

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