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【江戸の教育】寺小屋•庶民の教育と道徳〜古書から日本の歴史を学ぶ〜


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こんにちは、今回は江戸時代の学問施設である寺小屋についてお話しさせて頂きます、よろしくお願い致します。

【江戸の教育】

江戸時代の庶民は主従関係に基づく封建社会の中で、庶民としての道徳が要求され、日常生活に必要な教育を積むべきものと考えられました。江戸時代の庶民の教育は一般に家庭生活および社会生活の中で行われましたが、教論所(きょうゆじょ)という社会教育施設も発達しました。ここでは成人や青年のため、生活の心得や道徳、習字、様々な技術の指導などを行いました。

江戸時代中期以降は寺小屋が発達し、庶民の子供の教育機関として次第に一般化していきます。

寺小屋は庶民の子供が読み書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した、私設の教育機関です。起源は中世末期にまで遡り、中世の寺院教育を母体として発生したものと見ることができます。

寺小屋という呼称もここから発生したものと言えますが、この他にも手習い所や手習指南などとも呼ばれていました。

幕末期には全国で15,000軒ほどあったことがわかっています。

寺小屋の先生のことを師匠と呼称しており、身分は平民が多く、その他神官や僧侶など様々で女性の師匠も多かったそうです。

【寺小屋の教科書】

8代将軍徳川吉宗が「六諭衍義大意」(りくゆえんぎたいい)という教科書を編集させ、当時有名な町奉行であった大岡越前守(大岡忠相)に命じて江戸の手習師匠10人にこの教科書を与えました。それ以降、寺小屋の教科書として広く普及して行きます。

教科書はこの他にも全国的に出回っていた「商売往来」「百姓往来」算術の「塵劫記」(じんごうき)などをはじめ、自由に発行され自由に採用出来たため種類は7千種以上にも達します。

その中には職業に特化した教科書もあり、生徒が社会に出てすぐに活用できるような、文字や知識を優先して教えていました。

【入門から授業内容】

7歳〜9歳くらいになると親は近所の師匠の元へ連れて行き入門させます。寺小屋への入門は時期は特に決まっていませんが、旧暦2月の最初の丑の日の翌日に入門する場合が多かったようです。

教室は原則として師匠の自宅を使っていて、10人くらいの小規模な寺小屋から100人規模の大型の寺小屋もありました、この場合は助手の師匠を付けています。

授業内容の一例をご紹介すると、最初はいろは歌の読み書きを教えます。

いらなくなった半紙を綴じた手習草紙(そうし)という練習帳に筆写させることから始めます。いろは歌の次は数字、かなの短文、さらに進むと漢文や手紙文などを習い、次第に文章が読み書きできるようになります。

手習草紙は貴重だったため、同じ紙の上に少しずつずらしながら何度も重ねて書いています。

同じ寺小屋の中に様々な年齢の子供がいたため、その中で一対一の対面指導が基本でした。師匠によってはそろばんを教えたり、女性の師匠は女子生徒に裁縫や生け花を教えることもありました。

席書(せきがき)と呼ばれる、現代でいう授業参観の様な行事も行われていて、親や近所の人たちが観にきていたそうです。

【寺小屋の経営】

寺小屋の入門料や月謝は地域又は師匠によって様々です。入門料のことを束脩(そくしゅう)、月謝のことを謝儀(しゃぎ)と呼び、江戸では銭を納めることが多く地方では食べ物や物品をおさめた記録が残っています。

地方や農村部ではそれなりに資産のある平民が師匠になることが多く、月謝を取り立てたという記録は無いに等しく、身分相応の謝儀を各々納めていました。

幕末期の日本全体の識字率については、いろいろな研究報告がありますが、武士階級では100%、庶民では男子が大体49〜54%、女子が19〜21%とされ、当時のアメリカが約20%、ロシアが約10%であることから世界水準で見てもトップだと言えます。

明治5年に学校制度が敷かれると、寺小屋は廃止され、当時の師匠達は寺小屋から小学校への移行整備に貢献し、小学校教師として採用される人もいました。

明治23年には明治天皇から教育勅語が発布されます。

これは戦後の1948年、連合国軍占領下の国会において失効確認されるまで教育現場で活用されました。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

参考書籍

石川謙著書 日本庶民教育史

河合敦著書 早わかり江戸時代

大石学著書 今に息づく江戸時代

石川英輔著書 大江戸庶民いろいろ事情

磯田道史著書 江戸の備忘録

文部科学省HP

江戸東京博物館HP



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