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【神武天皇】5人の皇子の職業に勅令が出される・橿原宮〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
〜※この文章はYouTubeで無料で視聴できます
こんにちは、今回は格式高い偽書ウエツフミを参考に神武天皇の5人の子供についてお話しさせていただきます。
神武天皇の子供と聞くと、第2代目綏靖天皇を思い浮かべると思いますが、この天皇の他にも4人の皇子がいたことはご存知でしょうか。
第2代目綏靖天皇は初代神武天皇の第3皇子でカムヌナカワミミノ尊といい、フキアヱズ74代の皇位を継ぎました。
その他の皇子たちは神武天皇の勅令を受けて各々神聖な職業に就きました。
第一皇子のタギシミミノ尊は東の国々から奥羽に降り、医術を指導普及しました。
第二皇子のキスミミノ尊については家職の記録がないことから早くに世を去ったと考えられています。
第四皇子のヒコヤヰミミノ尊は橿原宮の宮司となりました。
第五皇子のカムヤヰミミノ尊はタギシミミノ尊と同じく医術を指導普及するため西の国々に降り諸国を巡歴して住民の病苦を救いました。この記録から当時医者は神職であったことがわかります。
そしてウエツフミはこの直後に記録が断絶しています。
なぜ第一皇子のタギシミミノ尊が後継者にならなかったのでしょうか、理由は異母兄弟だからです。
第一皇子のタギシミミノ尊と第二皇子のキスミミノ尊は実の兄弟で母親はアヒラツ姫という人物です。
この姫のお祖父ちゃんはニニギノ尊でお祖母ちゃんがコノハナサクヤ姫です。神武天皇がまだ日向にいた時の子供達です、そして神武東征後に奥さんになったのがヒメタタライスズ姫です。
第三皇子から第五皇子はこの姫の子供で、ウエツフミでは生まれた順番は後の綏靖天皇のカムヌナカワミミノ尊、ヒコヤヰミミノ尊、カムヤヰミミノ尊の順になっていますが記紀ではヒコヤヰミミノ尊、カムヤヰミミノ尊、綏靖天皇の順です。当時末子相続制度が適用されていれば記紀の方が有力だと思います。
古事記に置いては第一皇子、タギシミミノ尊の妻は神武天皇の妻と同一人物になっています、要するに父親の再婚相手を妻にしているちょっとやばいやつになっているのですが、これは古事記だけに記述されていて他の正史・古文書ではそのような事は書かれていないため事実無根の可能性もあります。
第一皇子タギシミミノ尊は神武天皇が崩御した3年後の11月に異母兄弟の弟である綏靖天皇に殺害されました。
第四皇子のヒコヤヰミミノ尊は橿原宮の宮司になったとウエツフミには記録されています。
神武天皇は子供達を集め「御身(おみ)たちは家職を何う定める考えであるか」と問います。
ヒコヤヰミミノ尊は「私は橿原宮の宮司になりたいと考えております」と返答し、
これに対し神武天皇は「よかろう、鳥見山(とみやま)の辺りに大宮を太敷(ふとし)き建てて(=立派に建てて)、イツキノカミ(宮司)になれ」と命じています。
現在の橿原神宮の創建は1890年ですが、今からおよそ2600年前にも橿原宮が畝傍山の東南山麓に創建されたことが日本書紀に記録されています。
橿原神宮は戦前まで内務省の管轄で国家の安寧などを祈願する場所とされてきました。それが戦後は国の管理を外れることとなり開かれた場所となりました。
現在の橿原神宮に問い合わせてみたところ、1890年以降の宮司さんの記録しか残っておらず、神武天皇時代の橿原宮に関しては何もわからない、とのことでした。
ウエツフミを写本した幸松葉枝尺氏は、大友能直がウエツフミを編纂した時は41巻より後もあったが後世紛失したと推測しています。41巻以降のウエツが見つかれば橿原宮の歴史も明らかになるかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考書籍
吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」
「古事記以前の書」
国立図書館コレクション「上記」
井上光貞・佐伯有清・川副武胤著書「日本書紀Ⅰ」
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