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【短編小説】白き仮面の陰影

(※作中に性的描写を含む箇所がありますので、ご注意ください)

 19世紀末のロンドン。霧に包まれた街の片隅で、一人の青年紳士が佇んでいた。エドワード・グレイ――名門貴族の家に生まれ、完璧な紳士として将来を嘱望されていた若者だ。

「やあ、エド。また書斎に籠もっていたのかい?」

 優雅な足取りで近づいてきたのは、エドワードの幼馴染にして恋人のキャサリン。
 麗しく微笑む彼女に、エドワードは思わず頬を緩めた。

「ああ、少し読書に夢中になってしまってね。すまない」

 二人は寄り添うように歩き出す。めでたく結婚の話も持ち上がっているという。だがエドワードの内面には、誰にも言えぬ苦悩が渦巻いていた。

「まったく、最近のエドときたら。何が思い悩むことでもあるの?」
 キャサリンは小首を傾げる。
「何でもないさ。ちょっと疲れているだけだ」

 嘘をつくたびに、胸の奥がざわめく。
 エドワードは微笑を作ることしかできない。

 事の発端は数日前、彼が書斎で偶然見つけた一冊の書物だった。
 『白い幻想』と名付けられたその本は、一読するだけで官能的な倒錯の深淵へと誘ってくる。

「そこに書かれていることは、まるで悪魔の囁きのようだった」

 エドワードはのちのそう述懐している。
 禁断の書物に魅入られたエドワードは、次第にその内容を現実に求めるようになっていく。
 表向きは相変わらず紳士的だが、内なる衝動は日に日に膨らんでいった。

 ある日、エドワードはこっそりとロンドンの裏通りへと足を踏み入れる。
『白い幻想』に導かれるまま、秘められた欲望を満たすために。

「おやおや、こんなところでお目にかかるとはね」

 薄暗い路地裏で、一人の男が声をかけてくる。どこかで見覚えのある紳士だ。

「あなたは確か、ブラックウェル卿……?」
「ええ、その通りだ。しかしここで君と会うとは奇遇だね」

 ブラックウェルは、エドワードの父と同じ上院議員だ。
 男装の麗人としてその界隈ではつとに有名だ。
 しかし、その目は獲物を狙う獣のように鋭く光っている。

「君も『白い幻想』の虜になったようだね。私と同じだ」

「な、なぜあなたがそれを……」

 動揺を隠せないエドワード。

「フフフ、私は君と同じ『狂気』を秘めているのさ。さあ、ためらうことはない。共に快楽の淵へと落ちようじゃないか」

 ブラックウェルは嫣然とした笑みを浮かべ、路地裏の奥へと消えていった。
 誘われるまま、エドワードもまたその背中を追う。

 怪しげな扉を潜った瞬間、エドワードの前に広がっていたのは想像を絶する狂宴の世界だった。

 薄暗い部屋の中で、数十人の男女が入り乱れて淫靡な宴を繰り広げている。彼らは皆、仮面を被っているものの、ほとんど裸体に近い状態だ。空気は熱気と獣じみた欲望に震えていた。

 椅子に横たわる一人の女。華奢な肢体を二人の男が貪るように弄んでいる。一人が荒々しく乳房を揉みしだけば、もう一人は秘裂に指を這わせ、容赦なく蹂躙する。女は喘ぎながら、悦楽の表情を浮かべている。

 少し離れた場所では、複数の男女が入り組んで一つの肉の塊となっている。ペニスとヴァギナが絡み合い、秘所と秘所がぶつかり合う。汗と体液にまみれた彼らは、まるで頭のない獣のようだ。快楽だけを求めて貪欲に腰を振るその姿には、人間らしさの欠片もない。

 別の一角では、いかがわしい玩具を使った倒錯プレイが繰り広げられている。黒光りするボンデージ衣装に身を包んだ女王様が、蝋燭を手に男を責め立てている。ロウソクの焼けつく感覚に、男は歓喜の悲鳴を上げる。傍らでは二人の女が互いの蜜壺を擦り合わせ、甲高い嬌声を漏らしている。

 これらのあまりにも破廉恥な情事の数々。エドワードはその光景に呼吸を奪われた。頭の中が真っ白になる。理性の声は遠のき、ただ欲望だけがぐんぐんと膨れ上がってくる。
素晴らしい……これこそが、私の求めていたものなのだ」

 彼の瞳は熱を帯び、全身が戦慄に打ち震えた。『白い幻想』の世界が、目の前に現出しているのだ。狂気じみた悦楽に彩られたこの空間こそ、エドワードの隠された本性が渇望していたものだった。

 息を荒げながら、彼はゆっくりとコートを脱ぎ捨てる。理性の仮面を剥ぎ取るように、一枚一枚衣服を床に落としていく。やがて完全な裸体になったエドワードは、怪しげな微笑を浮かべてその惑乱の渦の中へと歩み入った。

 官能と倒錯のバッカナール。

 それはエドワードにとって、悪魔的な誘惑の園だった。抑圧されていた内なる獣が、すべての檻を砕いて解き放たれる瞬間。彼はその禁断の悦びに身を委ね、堕落の坂を転げ落ちていくのだった。
 心の何処かで呟く声。理性の檻から解き放たれた獣が、エドワードの内に目覚めつつあった。『白い幻想』の一節が彼の脳裏に浮かぶ。

――我が全てを捧げん、この悦楽の権化に。
真昼の仮面の下で、闇に抱かれながら。


「エド、一体あなたはどうしてしまったの……!」

 数日後、キャサリンはエドワードの行方を追って、裏通りをさまよっていた。突如として姿を消した許婚に、彼女は激しく動揺している。

「あら、こんな可憐なお嬢さんがこんなところで何を?」

 やがて一人の女が、キャサリンに話しかけてくる。派手な化粧に高笑いを上げるその姿は、明らかに高級娼婦だった。

「あ、あなたは……エドワード・グレイをご存知ないでしょうか?」

 おずおずと尋ねるキャサリン。

「ああ、あの美男子さんなら見覚えがあるわね。この辺りの『秘密のサロン』に出入りしてるのを見かけたわ」

「ひ、秘密のサロン……?」
 聞き慣れない単語に、キャサリンは息を呑む。
「うふふ、あなたみたいなお嬢さんには刺激が強すぎるかもしれないわね。でも、あなたの旦那様も人並みに『闇』を抱えているってことよ」

 高笑いを残して娼婦は去っていく。愕然とするキャサリン。純真で完璧な紳士だと思っていたエドワードが、こんな場所に出入りしているなんて……。

 一方その頃、エドワードは人目を忍んでブラックウェルと密会を重ねていた。表の顔を隠したまま、倒錯の快楽に溺れる日々。それはまさに『白い幻想』の登場人物たちと重なる狂気の日々だった。

「ねえ坊や、私と一緒に堕落した『永遠』を生きてみないかい?」

 ブラックウェルの甘美な誘惑。
 すっかりその虜となったエドワードは、彼女の腕の中で忘我の喘ぎを上げる。
 官能と倒錯が入り乱れる悦楽の世界。もはや日常への帰路など、どこにも見えなかった。

『白い幻想』の一文がふと脳裏をよぎる。

――仮面の奥で蠢く衝動こそ、真の自己の姿。偽善の殻を破り、悦楽の翼で飛翔せよ。


「私はもう、エドワードを……!」

 目の前の惨状を見て、キャサリンは絶叫した。
 深夜、エドワードの自室に忍び込んだ彼女の前に現れたのは、あまりにも悲惨な光景だった。

 部屋の中央で、エドワードがぐったりと横たわっている。息絶えた彼の手には、『白い幻想』が握りしめられていた。そして彼の肉体は、言葉にできないほどの凌辱の痕に覆われていた。

 ブラックウェルの姿は、どこにも見当たらない。おぞましい秘密を握られることを恐れたのか、それともエドワードを玩具のように弄んだ末の未練なのか。

「エド……どうしてこんなことに……」

 泣き崩れるキャサリン。
 愛する人の最期に立ち会えなかった悔恨と、見知らぬ彼の内面を知ってしまった戸惑い。複雑な思いが胸を引き裂く。

『白い幻想』の中に挟まれていた、一枚の詩篇。それは、この物語の顛末を暗示するかのようだった。

白百合は闇に咲き誇る
仮面の奥に潜む欲望
清白の衣をまとい
背徳の甘美に身を委ねる

欺瞞の日々の果てに
純白は闇に呑まれゆく
倒錯の芽吹きを胸に
百合は永遠の眠りにつく

 優雅に立ち尽くすキャサリン。『白い幻想』の悪魔的な詩の感染は、いつの間にか彼女の内にも芽生えていた。純潔を喪失した百合のように、心の奥底で禁断の花が静かに息づいている。

「私にも、仮面の内側があったのね……」

 そう呟いて、キャサリンはエドワードの亡骸に口づける。
 冷たい唇が、彼女の内なる闇を呼び覚ました瞬間だった。

 狂気の連鎖は、静かに次なる犠牲者を求めて巡っていく。

(了)

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