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【短編小説】「最後の絆:穏やかな旅立ち」

 末期のすい臓がんである田中麻子さんは、ホスピスで静かに暮らしていました。彼女の担当医である藤澤緑さんは、実の姉のように麻子さんを慕っていました。実際、麻子さんと緑さんのやりとりは、深い信頼と情緒的な絆に満ちたものでした。
 彼女たちは病室の中で、穏やかな時間を共有しながら、麻子さんの最期の時を支え合っていました。
 緑さんはやさしい笑顔で麻子さんのベッドのそばに座り、彼女の手を優しく握りました。
「麻子さん、どうですか? 少しは楽になりましたか?」
 麻子さんは疲れた表情で微笑みながら、緑さんに答えました。
「緑先生、ありがとう。少し痛みがは和らいだみたいです。でも、おかげさまで毎日が癒されています。本当に感謝しています」
 緑さんは頷きながら、思いやりのこもった声で言いました。
「麻子さん、私はいつも一緒にいて、あなたを支えることができることを嬉しく思っています。どんな時でも、私はあなたの味方ですからね。それを忘れないでくださいね」
 麻子さんは感謝の気持ちで胸がいっぱいになりながら、緑さんに話しかけました。
「緑先生、私、実の姉が亡くなってから本当に寂しかったんです。でも、緑さんがそばにいてくれるおかげで、本当に嬉しいです」
 緑さんは優しい笑顔で続けました。
「私も麻子さんのこと本当にお姉さんのように思っていますよ」
 麻子さんは微笑みながら、緑さんの手を握り返しました。
「緑先生、あなたは私にとって本当の天使です。私の最期の時にそばにいてくれることが、本当に幸せです」
 緑さんは感極まった表情で麻子さんを見つめながら、優しい声で続けました。
「麻子さん、私もあなたとの出会いに感謝しています。あなたの勇気と強さは私にとっても大きなエネルギー源です。だから、麻子さんが最期まで平穏でありますよう、全力でサポートさせてくださいね」
 そして今日も緑さんは麻子さんのために全力でケアを提供し、彼女の最期の時を支え続けています。
 麻子さんを慕う人々は日々、見舞いに訪れます。家族や友人、同僚たちが思い思いの言葉を掛け、麻子さんの側に寄り添います。そうした温かな支えに感謝しながら、麻子さんは自身の余命と向き合いながらも、穏やかに時を過ごしています。
 しかし、癌が進行し、麻子さんの体に脳への転移が現れました。脳の状態が不安定になり、時には譫妄といった症状が現れるようになりました。過去の記憶や現実との境界線が曖昧になり、彼女の心は混沌としていったのです。
 ある日、譫妄の状態になった麻子さんは思いがけない体験をします。それは幼い頃に死別した親友、多恵さんとの再会でした。
 いつものように麻子さんが病室の中から外の海を見つめていると、突然声がしました。
「あーちゃん!」
 それはとても懐かしい声でした。麻子さんが振り返るとそこには遠い昔に戦争で亡くなったはずの親友、多恵さんが座っていました。その姿はまったく当時のままでした。
 麻子さんはその姿を見つけると、驚きと喜びを抱えながらも、声を絞り出すように話しかけました。
「多恵ちゃん……? 本当に多恵ちゃんなの? 信じられないわ……」
 多恵さんは優しい微笑みを浮かべながら、麻子さんの手を取りました。
「そうだよ、あーちゃん、あたしだよ。本当にあたしだよ。あたし、あーちゃんのことずっと見てたんだよ」
 麻子さんは不思議そうな表情で問いかけます。
「でも、多恵ちゃん……多恵ちゃんは空襲の時、爆弾に当たって……死んでしまったはずじゃないの? どうしてここにいるの?」
 彼女の声には疑問と混乱が込められていました。
 多恵さんは麻子さんの手を握りしめながら、胸に手を当てて言いました。
「あーちゃん、魂はずっとあるんだよ。消えないんだよ。だからあたしはあーちゃんの心の中でずっと生きていたんだよ。だから、あーちゃんの喜びも、悲しみも、全部知ってるよ。全部、ぜーんぶね」
 麻子さんは涙を流しながら、多恵さんの手を強く握り返しました。その手は優しいぬくもりに包まれていました。
「私もずっと多恵ちゃんのことを忘れなかった……。戦争が終わって何年経っても、何十年経っても……あたし、またあの頃みたいに多恵ちゃんと一緒に遊んで笑い合いたかった……本当は一緒に成長して、いろんなことを話したかった……でも、本当に会えるなんて…」
 多恵さんは優しく微笑みながら、静かに続けます。
「あーちゃん、私たちはいつも心でつながっていたんだよ。ずーっと一緒にいたんだよ」
 麻子さんは喜びに胸を膨らませながら、多恵に抱きつきました。
 多恵も優しく麻子さんの頭を撫でてくれました。そしてそのまま静かに多恵は消えていきました。
「麻子さん、お元気ですか? どうしました? 何か嬉しいことでもありましたか?」
 その時ちょうど緑が回診のため病室に入ってきました。
 麻子さんは興奮しながら答えました。
「緑先生、あたし、本当に嬉しいことがありました! 私、ついさっき多恵ちゃんと再会したんです!」
 緑さんは驚きの表情を浮かべながら、麻子さんに聞き返しました。
「多恵ちゃん……それはいつも話してくれる幼い頃に亡くなったという親友の多恵ちゃんですか?」
「はい! そうです、先生!」
 緑さんは心の底から嬉しそうにしている麻子さんを見て自分も嬉しくなってきた。
 と、同時に淋しい気持ちにもなった。
 こうした親しい人と夢の中での再会……本人にとっては現実だが……は、本当に死が間近に迫って来た時によくあることだからだ。「お迎え現象」という別名もあるぐらいだ。
「そう……良かったですね、麻子さん。多恵さんもきっと同じように嬉しかったでしょう?」
「はい、先生!」
 麻子さんは涙を浮かべながら、何度も何度も頷いた。

 緑の予想通り、麻子の衰弱は進み、やがて水すらも受けつけなくなりました。
 緑は麻子の命はあと一両日程度だと判断し、家族に連絡をとりました。
 緑は麻子さんのベッドのそばに座っていました。
 そして夫と娘もその周りに集まりました。
 麻子さんは意識を失い、静かに寝息を立てています。
 彼らの心は重く、切ない雰囲気が満ちていました。
 緑は落ち着いた声で家族話しかけました。
「みなさん、麻子さんの最期の時が近づいています。今は彼女のそばに集まって、できる限りの愛と優しさを注いであげましょう。お互いに支え合い、麻子さんが最後の旅立ちを心安らかに迎えられるようにしましょう。耳は最後まで聴こえていますので、どうか麻子さんへの感謝と愛を伝えてあげてください」
 麻子さんの夫・浩司は悲しみに震えながら、緑先生に問いかけました。
「緑先生、麻子の苦しみを少しでも軽減する方法はありますか? 何かできることがあれば教えてください。僕はなんでもやります」
 緑は優しい表情で浩司に向きあいました。
「今は麻子さんが安心して旅立てるように、穏やかな環境を作ることが大切です。彼女に寄り添い、心の中で彼女とつながっていることを伝えてあげてください。そして、彼女が苦痛を感じないように、私たちは必要な措置はすべて取っていますのでご安心ください」
 麻子さんの娘・弘美が涙ながらに言葉を紡ぎました。
「お母さん、本当にお疲れさま、本当にありがとう。今まで本当に良く頑張ったね。お母さんのことは絶対忘れないからね。だから安心して天国に行ってね……!」
 緑さんは優しく微笑みながら弘美に寄り添いました。
「麻子さんは本当に長い間頑張りました。彼女はたくさんの愛と支えを受けて生きてきました。弘美さんの言葉は麻子さんにちゃんと届いていますよ」
 やがて麻子さんは下顎呼吸を始めました。
 これは死がいよいよ目前に迫っていることを示していました。
 緑もそのことを家族に説明しました。
 浩司も弘美も、麻子さんの手をぎゅっと握って優しく喋りかけています。
 その時、今まで閉じられていた麻子さんの瞳が突然ひらきました。
「お母さん!?」
「麻子!?」
 浩司も弘美も同時に叫びました。緑さんも予想外の事態に驚きを隠せませんでした。
「あ…りが……と……みん……な……ありがとう……」
 苦しい息の下から麻子さんは夫と娘、そして緑さんに話しかけました。通常、下顎呼吸が始まると喋ることはできないはずなので、これには緑さんも大いに驚きました。
「ああ……たえちゃん……おかあ……さん……きてくれたの……」
 そう言って麻子さんは静かに目を閉じました。
 同時にその呼吸も静かに終焉を迎えました。
 緑さんはおもむろに麻子さんの心拍停止、呼吸停止、瞳孔散大を確認しました。そして瞳孔の対光反射停止を確認してから家族に向き直りました。
「御臨終です。麻子さん、本当によく頑張られました……」
「麻子ー!」
 麻子さんに抱き着く浩司の絶叫が病室に響き渡りました。
 しかし同時に病室に穏やかな空気が流れていました。
 弘美は涙を流しながらも、しっかりと自分の命を生ききった母の姿に誇りを感じていたのでした。

(了)

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